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エロゲーとか18禁乙女ゲーとかBLゲーとか……メディア論とか [雑記]

 ところで私の専門は、社会学のメディア論、その中でもメディア文化論といわれる分野なわけです。いや専門といってもそれでご飯食べているわけじゃないんですけどね。

 メディア論とは何か。簡単に説明したいと思います。
 我々は普段、友人と「対面」でとか「電話(通話)」でとか「携帯メール」でとか「PCメール」でとか「mixi」でとか、コミュニケーションを取っています。これらは全て別のメディアです(対面がメディアなのかは微妙な問題(ex.言語はメディア))。

 さて、誰かを好きになったとします。告白をどのメディアを使ってするか。
 普通は対面でしょう。対面以外考えられないという人も多いと思います。しかし今の大学生くらいだと、結構電話やメールで告白というパターンもあったりします(実際にアンケート結果があります)。
 これが別れの場面になるともっと結果は残酷で、ちゃんと会わずに電話やメールで済ますというパターンも多くなってくるのです。逆に、例えば遠距離恋愛をしていても、最後だけは顔を見て話をしようと、対面で別れ話をするケースもあります。

 どうして対面ならよくて、電話越しやメールの文面だとダメなのか。
 また、同じ「あなたが好き」という言葉でも、会って話すのと、電話で伝えるのと、メールで送るのではどう違うのか。何故違うのか。
 これを考えるのがメディア論です。


 で、どうしてエロゲーが出てくるかというと。今朝私が3時間しか眠れなかったー(自動的に目が醒めた)悲しみの中で、mixiボイスに書き散らしたことのまとめなんですが、発端は今日アマゾン様から4つも荷物が届くよ! 宅配便のお兄さんに中身がエロゲーだと思われたらどーしよーというところから始まっています。それはどうでもいいです。

 最近、といっても半年以上前ですが、私はとあるSMコミュニティに知己を得ました。それ以来、色々考えたことがあります。
 エロゲーには割とSM的なものというか、調教とか陵辱といったジャンルがあります。BLゲーム(女性向け、男性×男性の恋愛ゲーム)でも割と鬼畜や陵辱は好まれるシチュエーションのようです(もちろん純愛しかダメという人も、男女問わず大勢います)。しかし18禁の乙女ゲーム(女性向け、女性×男性の恋愛ゲーム)では、そういったSM的シチュエーションは好まれないようです。という意見をネットの掲示板で見ました。
 何故でしょうか。

 私は「男性女性を問わず、自分が被害者になりたいという欲求を公然化することには抵抗があるから」ではないかと仮説を立てました。
 エロゲーでも男性がM側であるものはあんまりないわけです(寝取られものくらい?)。BLゲームは完全に第三者の立場で、その時々に応じて都合のいい相手に感情移入して楽しむものです。
 純粋にMの立場にある人が主人公+(主に想定される)プレイヤーと同じ性別であるゲームって、基本的にないわけです。言い換えると、(主に想定される)プレイヤーと同じ性別である登場人物がMの側であるゲームはない。
 例えば男性向けエロゲーの調教ものを、M女性がプレイして感情移入して楽しむってことも充分ありえるわけですが、それはあくまで主想定ではない、例外的プレイです。

 これを肉付けする論理はいろいろ考えられます。ゲームをプレイする行為はそもそも主体的なものだから、どうしても(SMで言えば)Sの側を主人公にせざるを得ない。自分から被害を受けに行くというシチュエーションをストーリーにすることは、客観的に考えて難しい。でもやはり一番の理由は、「被害者になりたいなんてオカシイだろう」という、至って単純な"常識"です。例えそれが現実とは異なっていてもです。
 「加害者になりたい」は逆に認められるわけです。ゲームの中でくらい、犯罪者になったっていいだろうという、ソフ倫真っ青の本音。しかしこの本音は世の中に広く受け入れられています。男性向けに限らず、ゲームに限らず、本でも映画でも犯罪者ものは多いです。
 Mになりたい人もSになりたい人もいるのです。ただ、客観的に見た場合、(身体的に)Mになりたいという願望は拒否反応を起こされ、Sになりたいという願望には一定の理解が示される。実際のSM世界と非SM世界の狭間でも、比較的似た傾向があるように思います。……身体的に、ね。精神的なサドマゾは、最近とみに社会性を得ていますから。

 さらにここにもう一つ、ジェンダー(社会的性差)の問題が加わります。「男性が公然と自分が弱い側に立ちたいという欲求を示すことは認められない」という、根深い問題です。

 これらが合わさって、エロゲーやBLゲームではあくまで男性が加害者という設定の元、調教や陵辱といったSM的なジャンルが存在し、女性が主人公の乙女ゲームではそれはないのです。
 私の仮説によれば女性がSで男性を調教していく乙女ゲームがあってもよさそうなものですが、とあるSMバーのオーナーさんによると、S女性というのはSM男女4通りの組み合わせの中でもっとも少ないらしい。乙女ゲームは元々ニッチなジャンルですし、その中でさらにニッチなS女性向けというのは難しいのでしょう。

 ここに乙女ゲームならではの特殊性も加わります。乙女ゲームはそもそも精神的には女性上位の世界なのです。
 俺様(男性向けで言えばツンデレ)な恋愛対象相手に、最初は冷たくあしらわれながらも、いろいろと手を尽くし、最終的には甘い言葉をささやいてもらう。それは一見、女性が男性に尽くしている図に見えますが、実際は逆です。一定の手順を踏めば必ず相手は振り向いてくれること、そもそもゲームはそのために作られていること、大体1つのゲームに複数の攻略相手がいて逆ハーレムと呼ばれる状況であることなどを考え合わせれば、明らかです。乙女ゲームはその名の通り、乙女(女性、S・M問わず)のためのゲームなのです。……じゃあM男性は?

 男性向けのわかりやすさに比べて、女性向けのややこしさが面白いところです。
 そして一見、性メディアの分野では恵まれているように見える男性のほうが、SM的観点から見るとS男性はよくてもM男性はその欲求を明らかに出来ないという点で抑圧されているとも言えるのです。逆に女性は不自由なようでいて、乙女ゲームとBLゲームを使い分けることで主人公の性別をも超越し、S女性は女性向けゲーム(乙女あるいはBL)で、M女性は男性向けゲームで欲求を満たすという自由闊達な性の謳歌をすることも出来るのです。

 ちなみに小説(ハーレクイン)の分野では、結構無理やり襲われて(でも結局好きになる)というシチュエーションが多いと聞いたことがあります。
 書き手が1人であり(編集さんがいますが)、読む側も部屋の中で1人こっそり読むというシチュエーションだと、割と「隠されるべき」本音が言いやすい。
 これもゲームと小説というメディアの違いがもたらす、「その(メディア)の上に何を乗せるか」というメディア論のお話につながります。


 さて、ここまで言ってきてなんですが、私はエロゲーも18禁乙女ゲーもBLゲーもほとんどやったことないのですよ。ホントホント。これくらいは常識の範疇です(そんな日本は嫌だ)。
 エロゲーは片手くらい、18禁じゃない乙女ゲーはそこそこやったことありますけど。ただコストパフォーマンスが。あんまりいい分野とは言えないですから。
 やはり本に勝るものなし(結論)。

 というわけで、今日も私はアマゾン様から本(非エロ)が届くのを待つのでした。
 ちなみに明日も届きます。
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「ブラックペアン1988」:駆け抜けた青春、取り残された痛み [小説]

 筆者――海堂尊により、現在進行形で語り続けられる、桜宮市のクロニクル(物語)。これはそこから約20年さかのぼった過去のお話です。今は要職に就いている人々が第一線で生々しく働き、主人公達がまだヒヨコ以下の卵だった時代。あの人にこんな過去があったのかという思いと、この人がああなるのかという思い、過去と未来が交錯し、シリーズファンにはたまらない出来となっています。
 また単独の物語としても、アクの強い外科医たちの現場でのぶつかり合い、そして出世や政治ゲームとして、スリリングな展開が待っています。作者が実際に体験した、医局に入ってすぐの研修医が体験するカルチャーショックも、生々しく描かれています。作者は違いますが「白い巨塔」の時代(1960年代)、そしてこの「ブラックペアン1988」の時代(1980年代)、「チームバチスタの栄光」の時代(2000年代)と、大学病院という異世界にあって変わるものと変わらないものがあることもうかがい知れ、興味深いです。やはりどちらかというと外伝的位置づけとして読む作品でしょう。

 ボリュームもそんなに多くありませんが、それだけにシンプルかつ詳細な手術の記述なども多く、何度も読み返せる味わいがあります。
 しかしこの作品を持って語るべき事があるとしたら、それは何かと考えた場合、私の頭に浮かんだのは「その後」が分かっている登場人物達、つまり約20年後も医局に残って活躍している人々ではなく、この物語の中で医局を去ることになる人物でした。
 そう、大学病院の教授選が激しいことは様々に描かれていますが、そこに至るまでもひたすらに勝ち抜き続けなければならない争いがあるのです。20年後が知れる人々は、どんな形であれ、20年を生き延びた人々なのです。

 私はかつて父のツテで、個人医院にて事務のバイトをしていました。受付から薬出し、診察室内での補助、PCによる保険の点数計算と、治療以外のあらゆることをさせてもらい、貴重な経験を得ました。
 先生は物静かで優しい方で、個性的で気が強い(といっても意地悪なわけではない)奥様いわく、「宝くじに当たったような」旦那様だということでした。先生は本来循環器科が専門でしたが、医院は小児科循環器科として看板を掲げており、とても繁盛していました。
 ただ一度、私は本来先生は大学病院にて専門の循環器の研究をずっとしていたかったのだけど、資産家の娘である奥様と結婚して開業させてもらい、大学を去ったという話を聞いたことがあります。奥様のご実家としては初期投資で娘に一生の生活保障をしてやれ、先生にとっては開業資金を出してもらえやはり生活の保障が得られるという、そんな話でした。
 私はその話を大して特異なことだとも思いませんでした。ずっと私立の学校に通い、中学受験もしていた身としては、奥様側、旦那様側、どちらの立場になる子も、同級生として身近にいたのです。

 例えば、小学生の頃から将来は医者になるものと決められて、週5日の塾に通い、小学受験、中学受験、大学受験(その後の医師資格国家試験)と、ずっと戦い続けることを親に望まれた子供達。
 一方で、ミッション系の女学校に入り、エスカレーターで大学まで進学し、やけにいい条件で企業に就職し、やがてはその企業内で結婚相手を見つけて寿退社することを見込まれている女の子達がいました。同様に、大学在学中あるいは卒業してから、大学医学部に秘書としてアルバイトに行くというルートもあります。もちろん配偶者探しのためです。
 私の周りでは、あまりにもそんな世界が当たり前過ぎて、高校を中退して社会学部へ行く自分ははっきり言って変でした。医者にならないなら、後は弁護士か、さもなければ親の跡を継ぐ、という世界だったからです。

 さて大きく脱線しましたが、要するにそれが幸せなのかということです。
 中から見てきた身としては、外から思われるほど不幸ではないと言えます。親の敷いたレールを歩むことにも、やりがいがないわけではないのです。レールがなくて困っている人もいるくらいですから。また、本当に嫌ならば、レールの外に出て行けるはずなのです。
 我々の親は子供の頃から、我々にたっぷり投資をしてくれました。それはすべて、私たち自身の将来のためです。親自身の経験に基づく、「なるべく確実な将来設計」のためなのです。……だからそんなに不幸ではない。
 でも、話を戻して、私がバイトをしていた小児科循環器科の先生は、幸せだったのかなとふと思いました。私たち――つまり私と同級生達の幸せは、ひたすら勉強してどこまでも翼を延ばし、飛び立っていくという部分に根源があったと思うのです。詰め込みだろうとなんだろうと、一流の塾で一流の教育を受けるということは、楽しいことだったのです。塾を卒業するとき、「これからは自分で学びなさい」と塾長からバトンを渡されました。人から見れば"落ちこぼれ"の私ですら、その言葉を忘れたことはありません。そして多くの友人は、その言葉のままにひたすらに努力を重ねて一流の医大へと進学していったのです。……だとしたらやっぱりその先は、医局に残って医学の先端を走り続けることが、幸せだったんじゃないかな、と。

 けれど、こうして小説の中にも描かれるように、大学病院というピラミッド型組織の頂点に登り詰められる人はわずかです。頂点でなくとも、自分のしたいことをし続けられれば幸せなのでしょうが、残念ながら、余所の世界でも言われるように「自分のしたいことをしたいなら、偉くなれ」というのが現実なのです。
 そしてそれが出来なかった人――つまり自分がしたいこと(において失敗した人)ではなく、出世や政治を間違えた人――は去っていく、そこが大学病院や官僚組織といった偏差値キャリアコースの歪な部分なのでしょう。
 そう考えれば、この小説内において「去る」ことになった彼はまだ幸せです。彼は彼自身の妄執によって破滅したのですから。ただ、その一度の失敗が取り返しのつかないものであったところに、やはり厳しさを感じます。

 「その後」を知ることのない、行方不明の彼にも20年後は訪れていることでしょう。おそらく街の開業医か、勤務医か。あれだけの人物が埋もれていくままだったとは思えない一方で、「行方は知れない」と断言されているとことに、大学病院という象牙の塔と、それ以外の世界との乖離を感じるのです。
 幸せの形は人それぞれ。幸せはどこにでもある、そう言ってしまうことは簡単です。だけど自らの意志によらずして失ってしまった、あのはるかなる高みを「なかったこと」にしてしまうこともまた、1つの冒涜ではないでしょうか。
 私たちは、ただひたすら高みを目指して走り続けたのです。それが青春でした。例え外部の思惑がどうであろうと、未来にどんな薄汚れた階段が待っていようとも、駆け上るつもりだったのです。
 ゆえに私は、この物語は未来が存在する「彼ら」のためではなく、ただこの物語のためだけに生み出され、物語の終わりと共に姿を消す「彼」のためのものだと考えます。

 ブラックペアン――体内に残されたままの、真っ黒な止血鉗子のように。栄光の陰にある挫折、いつまでも癒えることのない傷を、決して忘れないために。 

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
  • メディア: 文庫



ブラックペアン1988(下) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(下) (講談社文庫)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
  • メディア: 文庫


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「イノセント・ゲリラの祝祭」:本当に書きたいものを [小説]

 本当に書きたいものを書ける作家は幸せです。おそらく大多数はそうではないでしょうから。例えそれがアマチュアであってすら。
 このことは、真っ先に想像される外部からの圧力によるものだけとは限りません。真の敵は内側にあります。ミュージシャンを想像してもらえれば、もっと分かりやすいかもしれません。自分が歌いたい歌と売れる歌、どちらと書くか苦悩する姿は、よく漫画やドラマで描写されるものです。特に前作が自分でも思いもよらないくらいのヒットを飛ばした場合、このジレンマはより深刻なものとなるでしょう。
 この本の作者、海堂尊は「チーム・バチスタの栄光」で華々しいデビューを飾りました。同作品はドラマ化され、映画化もされ、さらに続編「ジェネラル・ルージュの凱旋」もまた映画化されました。とかく映像化が乱発される昨今、その作者の次なるシリーズ作品である今作も、映像化したい、そしてさらなるヒットを呼びたいとは、関係者誰もが考えることでしょう。

 しかし今作品は、まったく映像向きではないのです。
 ストーリーは、お馴染みの主人公コンピ、田口公平医師が、厚生省の型破り官僚白鳥圭輔によって、霞ヶ関中枢へと送り込まれ、またしても「窓際でボンヤリ暮らしたい」という本人の希望とは裏腹に、大騒動を巻き起こしていくというものです。型にはまった官僚行政の上に鉄槌を振り下ろす……といっても、鉄槌に振り回されて、気がついたら相手の脳天を直撃していたといったほうが正しいかもしれません。さらに個性的で魅力的な登場人物達も脇を飾ります。
 これだけ読むと痛快な物語です。しかしこれらの活躍はすべて、長ったらしい名前の委員会上で、言論としてやり取りされていくのです。それは手術室でメスを振りかざし、人の命を救ったり、あるいは逆に原因不明の死に直面したり、救急医療現場で鮮やかに現場を指揮することとは、大きな違いがあります。ただし、映像化するという前提に立つならばですけれど。

 一方で、作者であり、現役の医師でもある海堂尊にとっては同じ事なのです。これらのエンタテイメント作品は一貫して、エンタテイメントの皮をかぶった。現在の医療現場に対する問題提起なのです。特にAi(オートプシー・イメージング)と呼ばれる、死亡時画像診断、例えば遺体をCTスキャンにかけることによって、解剖に比べ遺体を損傷することなく、短時間かつローコストで正確な死因を知ることが出来るシステムを作り上げるための。
 処女作「チーム・バチスタの栄光」からずっと、作者がライフワークとして主張してきたその医療現場改革への主張の、1つの頂点がこの「イノセント・ゲリラの祝祭」です。だからこそ、この作品の登場人物達は激しい議論を戦わせ、大いに語り合います。語らなければならなかったのです。

 すでにベストセラー作家としての地位を確立していること、本業は別にあることを換算しても、作者の意志の固さには尊敬の念を抱きます。なぜなら、ヒット作を自己模倣する背景には、読者(客)を楽しませたい、彼らの期待を裏切りたくないという、営利を越えたなによりの欲求があるからです。
 そして、おそらく作者はこの壁すら乗り越えているのでしょう。楽しませる自信があるのでしょう。この作品、「イノセント・ゲリラの祝祭」には、決して読者を置き去りにした、独りよがりな熱弁があるわけではありません。――「何かを主張したい」作家は、しばしばこの罠に陥ってしまうものですけれど。
 議論の連続、それを飽きずに読ませるために、先述したような豊かすぎる個性を持ったキャラクターを配し、人が死ぬわけではありませんが、最後まで先が読めないミステリ要素も配しています。

 本当に書きたいものを書ける作家は幸せです。それは強い意志と、本物の実力によってのみ、可能なのです。

イノセント・ゲリラの祝祭 (上) (宝島社文庫 C か 1-7)

イノセント・ゲリラの祝祭 (上) (宝島社文庫 C か 1-7)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2010/01/08
  • メディア: 文庫



イノセント・ゲリラの祝祭 (下) (宝島社文庫 C か 1-8)

イノセント・ゲリラの祝祭 (下) (宝島社文庫 C か 1-8)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2010/01/08
  • メディア: 文庫



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「月読」:真実とは異常なもの [小説]

 タイトルは「つくよみ」と読みます。この本は、現代日本のパラレルワールドを舞台としたミステリです。この世界では、人は死ぬとき、しばしば「月導(つきしるべ)」と呼ばれる証を遺します。「月導」の形態は実に様々で、巨石やねじ曲がった標識といったものから、病室を染める色とりどりの絵の具、身も凍るような寒さといった形のないものまであります。そのどれもに共通するのは、「普通ではない」「尋常ではない」ということです。
 そして「月読」とは、その月導に触れて、死者が遺した最期の想いを聞くことが出来る異能力者たちのことです。
 ただし、そうやって聞いた想いは必ずしも遺された者たちの期待に添うようなものではありません。聞きたくない言葉もあれば、そんなこと?と拍子抜けしてしまうような、些細でつまらないものであることも珍しくないのです。さらにそれは、生前の故人の人徳や人柄とは何の関係もありません。現実の無情さ、ですから本物の月読たちは、自分たちの能力を誇ることなく、むしろ社会の影に隠れるようにして暮らしています。

 この作品はミステリなので、当然人が死にます。そして月導を遺します。月読も登場し、それら遺された月導を読んでいきます。
 だからといって、それがそのまま解決への手がかりを示すわけではありません。先述したように月導の遺すメッセージは、非常に断片的で曖昧で気まぐれで、ミスリードをおこす要素に満ちあふれています。

 それでも人は、月導を読みたいと願います。わずかな手がかりでもいいから欲しい、それはわずかな言葉でもいいから故人の遺志を知りたいという、まったく事件性のない場合でも、遺族が抱くであろう感情と重なります。
 月は高みにあって手の届かないもの。それでも人は、月に憧れ、月には何があるのだろうと思い、月に行きたいと願ったのです。
 この作品世界では、米ソが冷戦時代に月導の研究にあけくれたため、結果として宇宙開発が進まず、人類は未だ月に到達していません。このことは、とても示唆的です。

 本来ならば得られないはずのものに手を伸ばすとき、そこにはリスクがあるのです。宝石だと信じていたものが石ころかもしれない、尊敬していた人が実は犯罪者かもしれない、月を目指したロケットが暴発してしまうかもしれない。
 それでも人は手を伸ばします。そうして、真実の断片を、この世の真理の欠片をつかみとっていきます。……そのことが、例え幸福とは限らなくても。

 「真実は人を必ずしも幸福にしない」。それはミステリ小説全般に言える、1つのテーゼです。しかしミステリでは、最後には真実が、真犯人が明らかになるのです。

 真実を人に突きつける月導が、必ずどこか異常で、歪で、"この世ならざるもの"であることは、そのまま真実というものの非日常性、一歩踏み出さねば決して捕らえられぬものであることを示しているのかもしれません。
 ……それでも、この作品世界でも、人類はいつか月に到達するでしょう。

月読 (文春文庫)

月読 (文春文庫)




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「のだめカンタービレ 最終楽章:前編」:天へと至る階段 [映画]

 のだめを語ることは、私にとってとても難しいのです。日本編の頃(映像では連ドラの時)は、これは学園ものであり音楽コメディでした。しかしヨーロッパ編になってから、このお話は「夢を追い求めることの光と影」を描いていきます。才能があることは前提として、努力に努力を重ねて多くの犠牲を払い、光り輝く場所に出て行きたいと願うか、自分のやりたい音楽を、自由気ままに歌いたいと願うか。どちらも決して間違っていない、けれどどちらもそれ相応の苦しみがあり、帰結するのは才能あるゆえの苦悩です。

 天職というものがあります。人は自分の才能――つまり天職を知りたいと願います。でももしも本当に巡り会ってしまったら……。それは天へと至る道です。登り続けなければならない。足を踏み外したら落ちます。地上にいればただ見上げるのみだった場所へ、行くことが出来るかわりに、沢山のリスクを抱えるのです。そしてそれ以上に、切なさを知るのです。地上から空を見上げる切なさは、手に入れることが出来ない悲しみです。天職を知ったものの切なさは、天へと至る道をただひたすらに登り続けなければならない、そのために捨てるものの多さへの悲しみです。身軽でなければ、天には届かないのです。
 千秋はそれを知っています。ゆえに彼はストイックです。のだめはあまりにも煩悩が多く、そもそも天へと至りたいとも思っていません(と、少なくとも彼女は思っています)。しかし彼女にもまた、才能が与えられ、天職が与えられたのです。ついでに、階段を登るために手を引いてくれる人間も。のだめは千秋を追います。階段を登っていく千秋を追いかけ、彼女もまた階段を登らなければ、付いていくことは出来ません。それは二人共が音楽の申し子だからで、神に愛されてしまったがゆえです。追いつき、追い越されしつつ、天へと至る階段を登っていく二人のラプソディ、それがのだめカンタービレのヨーロッパ編です。

 映画、最終楽章:前編では、千秋のドラマが主に語られていきます。「俺は先に行く」と階段を登っていく千秋の物語です。のだめはその背中を見つめながら、自分もまた、努力というものをしなければならないことを知るのです。
 努力がストレートに出来る人間は幸せです。しかし例えばのだめのように、努力することに対してトラウマを抱えていたり、金銭面、体力面、その他リミッターを持っている人間もいます。千秋のような人間には、それが分かりません(日本編で少しそのようなエピソードがありました)。のだめが理解して乗り越えなければならないことなのです。なぜならこの階段には、登るという選択肢はあっても、降りるという選択はないのですから。

 どうして努力なんかしなければならないのか。天を目指さなければならないのか。理由はありません。音楽の美しさ、絵画、彫刻、舞台芸術その他の美に理由がないように、そこには理屈はないのです。ただ圧倒的な光のみが存在します。それを一度見てしまった人間は、己の矮小なることを知りつつも、また再び手を伸ばさずにはいられないのです。
 劇中で出てくる「天の理を知る」とは、そういうことかもしれません。
 千秋は理性によって、のだめは喜びによって、そこへ至ろうとします。

 映画後編ではのだめの物語が主に語られていくでしょう。音楽を喜びと捉える人間でありながら、努力を苦しみと感じてしまう彼女が、どうやって壁を乗り越えていくのか。そして千秋はどこまでそんなのだめを理解することが出来るのか。これは千秋にとっても試練です。なぜなら音楽とは本来喜びと共にあるもので、彼は時々そのことを忘れてしまうのですから。
 二人が共に手を携えて、それぞれの個性を生かしたまま、階段を登り始めたとき。それがこの物語の本当の始まりであり、終わりでしょう。彼らは何度もそれを繰り返します。
 そしていつの間にか、遥かなる高みへと至っているのです。足を踏み外したら落ちてしまうほどの高みへと。

 我々はそれを見上げる地上の人間です。そして降り注いでくる二人の音楽に身を委ねます。羨ましいと思いながら、自分には出来ないと思いながら、でも、いつか出会いたいと思いながら。
 自分だけの天職に――そして自分だけの光に。
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「パブリック・エネミーズ」:自分が生きた証 [映画]

 歳月ほど人に無常なものはありません。時の流れは心の傷を癒してもくれますが、月日の移ろいは昨日当然であったものを今日には不確かにし、明日にはまったくの無意味に変えてしまいます。

 「パブリック・エネミーズ」は元はノンフィクション本で、つまり実際にあった出来事、実在の銀行強盗と彼を愛した女性、彼を追った刑事の物語です。
 ジョニー・デップ演じる銀行強盗のジョン・デリンジャーは、ほぼ完璧な人間として描かれています。頭がよく仲間を見捨てず信念を持って仕事をし、視線と言葉だけで一人の女性を犯罪者の世界へと口説き落とし、窮地に陥っても決して自らの美学を捨てず、死を恐れない。微笑まないかわりに怒ることもない、終始穏やかな目に見え隠れするかすかな狂気。彼に足りないものはただ一つ、犯罪者、社会の敵(パブリック・エネミー)であるということです。
 本当に何が足りなかったのか。それはたぶん問題ではありません。時代を動かす人間がそうであるように、彼もまた、ただそう生まれ着いたのでしょう。ルーズベルト大統領、ベーブ・ルース、クラーク・ゲーブル。ロングコートを着て山高帽をかぶった男たちが街を行きかう時代。まだ連邦警察が設立されておらず、州を超えた犯罪に対してFBIという組織が作られようとする転機に、彼は遣わされました。
 時代が彼を生み、次の時代が彼を見捨てた。ただそれだけです。

 人は自分の生まれる時代を決められません。また、自分が何になるかも完全には決められません。現代においても高学歴ほど親の年収が高いことは、周知の事実です。では生き方は? 生き方は自ら決めることが出来るのでしょうか?
 どんな貧しい暮らしに生まれ、犯罪者にしかなれなかったとしても、高潔であることは出来るのでしょうか。人を愛し、仲間を想い、生きた証を時代に刻み付けることは出来るのでしょうか。

 おそらく出来ると思います。人は自らの生き方だけは、自分で決めることが出来る。……ただ、それが他者から、そして社会からどう評価されるのか、それは自分では決めることが出来ません。
 戦国時代に生まれた殺人狂が英雄となるように、これもまた時代が決めてしまうことなのです。

 それでも……。人は精一杯生きていきます。今の時代に評価されずとも、後の世にでも悪人とされても、きっと誰かはわかってくれると思いながら。時の流れの中で、すべては移ろいます。だからこそ、いつか誰かに出会うと願いながら。
 
 そんな大層な話ではないのです。どうしてデリンジャーは危険だとわかっていて、ある女性を愛し彼女を迎えにいったのか。それが答えです。
 彼はただ、自分が生きた証をその瞳の中に見出したかったのです。
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「白い巨塔」:まるでガン細胞のように [小説]

 女性作家の中には希に、男性よりも男性を描くことが上手い人々がいます。この本の作者、山崎豊子もその一人です。
 財前五郎の魅力とは何なのか。天才的な外科医でありながら、傲慢で権力欲が強く、出世に飽くなき情熱を燃やす一方で、成り上がり者ならではの小心さ、土壇場での弱さも持つ。ダークヒーローというにはあまりに泥臭く、格好良さというものがありません。しかしどうしようもなく惹かれる"臭い"があります。フェロモンというものでしょうか。
 不完全だからこそ、みっともないからこそ、どうしようもない、私が支えてあげないとずぶずぶ惹かれてしまう、そんな魅力です。

 一方で、もし私はこの世界に生まれ変わるならば、財前五郎のように生きたいと思いました。彼と対のようにして描かれる里見脩二の、清廉潔白で、正義のためならば不利益を被ることもおそれない生き方は美しい。しかし美しいがゆえに思い描くことは容易です。実行することだけが、とても難しいのです。
 財前五郎の生き方は、ジェットコースターにも似て先の見通しがつきません。その中をただ自分一人の力と意志を持って生き抜いていくことは、「生」そのものであるように思います。

 ただ、この世の大勢の人に理解されるかは分かりません。作者はおそらく財前の生き方に惹かれていたのでしょう。当初、この本が連載された時、財前は人生の栄光をつかんだまま話を終えます。しかし世の反響が大きかったために書かれた続編では、うって変わって彼の転落が描かれていくのです。
 それでもとことんまで落ちるのではなく、途中で死という形で人生を打ち切られたことは、作者の財前への抑えきれない執着であるような気がしてなりません。

 しかし私は……誰かがやらなければならないと思うのです。恵まれた人が恵まれた道を歩み、上に行くこと。清廉潔白な人が潔白なまま、相応の生を歩むこと。人の世はそれだけでは済みません。その下に、才能か人格か生まれか、何かが不足して、ゆえにそのままでは上になど決して行くことが出来ない人達がいるのです。
 そんな人達がそのまま沈んでいく世の中が正しいのか。そんな人達が泥臭く這い上がる世の中は間違っているのか。そんな人達が引っかき回す世の中こそ、この世のあるべき姿ではないのか。なぜなら、この世界には恵まれた人より恵まれない人が、人格者より非人格者のほうが多いのですから。
 財前五郎はダークヒーローなどではなく、ただの等身大の人間なのです。

 それでも彼の生き方が、あるいは人格が正しいとは思いません。彼を「正しくない」と断じることによって、人々は自らを省み、襟を正します。

 誰かがやらなければならないのです。恵まれなかった我が身を世界に向かって打ち付け、それでも「正しくない」と断罪されることで、この世界を前に進めることを。……そう、まるでガン細胞のように。あるいはウィルスのように。
 人はそれをヒーローとは呼びません。それでも、誰かがやらなければならない役目なのです。
 人類はまだ、ガン細胞を克服することは出来ていません。


白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)




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「トワイライト」:危険なものばかりを愛する [小説]

 最初は大して期待していませんでした。買ってみようと思ったのは、たまたま大学から教育支援金の一部が図書カードの形で返ってきたからです。あとはまあ、カンです。それで文庫になっている分、8冊を一気買いしました。
 しかし自分のカンもなかなか捨てたものではないと、もう人生で何度目かの自己満足に浸ることとなりました。

 基本は吸血鬼と人間の女の子のラブストーリーです。吸血鬼もの、吸血鬼と人間の恋愛もの、共にかなり使い古されたテーマですが、この作品のずば抜けたところは、とても完成度が高いところです。
 例えば、「もしドラキュラがヘルシング教授に勝っていたら?」の設定で、虚実おりまぜた歴史上の人物の半分以上を吸血鬼にし、一大叙事詩を描いて見せた、キム・ニューマンの「ドラキュラ紀元」のような尖った部分もはっとするような目新しさも、この作品にはありません。
 しかし伏線をきっちりと張り、登場人物達の心情を脇役に至るまで細かく描写し、読者を飽きさせずに次から次へとドラマチックな展開を繰り広げていく部分において、この作品は卓越しています。
 ただし基本が恋愛ものだということははっきりしていますので、恋愛映画に興味のない人が恋愛映画を観てもひたすら退屈なように、恋愛ものを求めていない人がこの本を読んでも、面白さは分からないでしょう。

 実際、この作品はかなり少女マンガっぽいです。
 主人公の女の子ベラは、両親が離婚し、母親の再婚に伴って父親の方と暮らすために街にやってきます。炊事洗濯も完璧で成績も良く、理性的で主体的です。自分の周りを取り巻く謎も、自らどんどん解決していく能力があります。一方で吸血鬼に対して「それは大したことじゃない」と言ってしまう博愛主義と勇気と無謀さを持ち合わせ、運動音痴であり、恋愛に対しては非常に自分に自信がなくて臆病です。
 恋愛マンガの主人公には割と居るパターンなのですが、小説では意外と珍しく、主人公がただただロマンチックで守られ、流されるだけではなく、強くて賢いという部分が私はとても気に入りました。
 でも、劇中でもなんでも言われているのですが、彼女は危険を引きつける存在であり、そればかりか自ら危険なものばかりを愛してしまう子なのです。

 吸血鬼だろうが狼人間だろうが、ふとしたことで理性を失って自分を殺してしまうかもしれない存在を、「そんなの大したことじゃない」と言ってよき友人、あるいは恋人にしようとする気持ち。それはどこから湧いてくるのでしょう。
 博愛主義なのでしょうか。それとも、これが若さというものなのでしょうか。彼女はちゃんと、自分が死んだら父親も母親も悲しむと分かっている、どちらかというと「両親よりもしっかりした子供」タイプの娘なのですけれど。

 彼女はたぶん……とても自由なのです。それは確かです。肉体ではなく、精神が自由で柔らかい。若さゆえの束縛のなさと、賢さゆえの世界の広さ、その両方が彼女の中には宿っているのでしょう。
 そう考えると、彼女がいずれは永遠の若さをもつ吸血鬼になることを選ぼうとしていることも、自然に思えます。吸血鬼もまた、永遠の若さと悠久の時を生きる賢さを持つ生き物ですから。
 ただそれは孤独なことでもあります。世の中の大半の人はそうではありませんから。実際にベラは、ちょっと孤立したところのある女子高生です。……だから危険を愛する。彼女にとって危険とは、自分を必要としてくれる、受け入れてくれる存在なのでしょう。

 危険ばかりを愛すること。それを貴方は危ういと思いますか。羨ましいと思いますか。何故だろうと思いますか。悲しいことだと思いますか。……素晴らしいことだと、思えるでしょうか。
 何が正しいのかは、たぶん問題ではありません。これは単に生き方の問題です。安全な生か危険な生か、人間の命か吸血鬼の命か。ただ人はその間で揺れ動きます。
 ベラのように軽々と境界線を飛び越えていく人間は、やっぱり珍しい。その先に、受け止めてくれる優しくそして危険な腕があったことは、彼女にとって人生で一番の幸運だったのでしょう。
 ……例えそれが、人としての彼女の命を終わらせることであっても。


トワイライト 上 (ヴィレッジブックス)

トワイライト 上 (ヴィレッジブックス)

  • 作者: ステファニー メイヤー
  • 出版社/メーカー: ヴィレッジブックス
  • 発売日: 2008/04/19
  • メディア: ペーパーバック



トワイライト 下 (ヴィレッジブックス)

トワイライト 下 (ヴィレッジブックス)

  • 作者: ステファニー メイヤー
  • 出版社/メーカー: ヴィレッジブックス
  • 発売日: 2008/04/19
  • メディア: ペーパーバック



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「JSA」:真実は明るみに出る [映画]

 JSAとは、"Joint Security Area(共同警備区域)"の略で、韓国と北朝鮮の国境を指します。そこは韓国の兵士と北朝鮮の兵士が日夜顔を合わせ、時には銃撃戦も起こる、一発触発の地域です。

 映画「JSA」は日本では2001年に公開された韓国映画です。ストーリーは、JSAで北朝鮮兵士を韓国軍兵士が射殺してしまいます。しかし、その場にいたそれぞれもう一人の北朝鮮兵士と韓国軍兵士は、まったく違う供述を繰り返します。真実は何が起こったのか……。それを中立国から派遣された女性将校が解明しようとしていく話です。

 スマッシュヒットを飛ばした「シュリ」の後で、4億円という当時としては大金の制作費を費やして大きな評価を獲得し、その後に続く韓国映画隆盛の先駆けともなった作品です。

 ともあれ、事件の裏には、JSAで偶発的に出会ったことから、いつの間にか国境の小屋に隠れて友情を育んでしまっていた、韓国と北朝鮮の4人の姿がありました。
 同じ言語を話す同じ民族、地雷を踏んでしまって「助けてくれ」という、とてもとても情けない相手の姿を見て、つい助けてしまった……最初はそんなことでした。
 やがて韓国人2人と北朝鮮人2人は、小屋の中でトランプをしたり、韓国から持ち込んだ菓子を食べたり、アイドル写真を見て誰がいいかを言い争ったり、ささやかでくだらない時間を過ごします。JSAの中で。
 それだけでも、多分、明らかにすべき事実ではなかったのです。

 韓国人兵士は北朝鮮兵士に亡命を勧めます。しかし彼は「祖国を捨てられない」と拒絶します。彼らの友情は、本当に繊細で危ういバランスの上に、しかし互いを思いやる心を持って成立していたのです。
 けれど……真実はいつか明るみに出ます。秘密は、ばれます。出会ったときと同じく、偶発的な出来事によって。
 その時彼らの危ういバランスは、崩れてしまいました。最後の最後まで、「どうしてこうなってしまったのか」と嘆きながら。
 挙げ句に起こった出来事は、本当に悲惨で悲劇的でした。ゆえに残った二人は偽証をしてでも真実を隠そうとします。それでもなお……、その事実すら、明らかにされてしまうのです。

 韓国と北朝鮮は未だ交戦中の国であり、韓国人と北朝鮮人は敵同士です。それが現実です。だけど一方で、あの小屋で、たわいもないことで笑い合っていた「許されざる」彼らの姿もあるのです。どちらも真実。しかし日の光の下で、認められるのは前者の真実です。それでしかないのです。

 真実を明るみに出すことの罪を、この映画は問いかけます。現実はそうそう善悪で割り切れるものではないのだと訴えます。
  人は真実を知りたいと願う。そのためにどれほど傷ついても。……けれど、その傷の深さを本当に分かっているのでしょうか。隠すべきものも、この世にはあるのかもしれません。
 でももう一つ確かなことは、そもそも民族分断が起こっていなければ、韓国と北朝鮮が敵でなければ、この悲劇は起こらなかったという事実です。

 その真実を明るみに出したからこそ、この映画は人の心を打ったのでしょう。


JSA [DVD]

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「大奥」:私は寂しい [漫画]

どんなに多くの異性に「好きだ」と言ってもらえても、自分が好きな人に振り向いてもらえなければ、それは無意味なのです。
もちろん魅力的な異性は好きです。見ているだけでも楽しい。周りに沢山いるならば、それに越したことはないと思います。
けれどやはり結ばれる相手は、自分が好きな人でなくてはならないのです。

……希に、あるいは希でもなく、多く好かれたい、多く恋われたいと思う人が居ます。私は彼らを見て、「何を探しているんだろう?」と思います。
それは水を飲んでも飲んでも渇きが癒えないのにも似て、とても苦しいことに見えるのです。いえきっとそれは大きなお世話で、花から花へと飛んでいくのも、楽しさはあるのでしょうけれども。

寂しいのはきっと誰もが同じ。それを埋めてくれる「誰か」を求めているのも、きっと誰もが同じ。

よしながふみの漫画「大奥」は、その名のとおり大奥を舞台にした物語です。ただし、男女が完全に逆転しているというところに特徴があります。
つまり将軍は女性であり、大奥にはその将軍の寵を競う大勢の男性がいるという設定なのです。出てくる将軍達は、家光に始まる徳川初期の実在の(と言っていいのか)将軍達であり、何故そのような世になったのかも、きちんと設定され、説明されています。

歴史上、一人の男性が多くの女性を囲うハーレムを持つことは珍しくありません。ただし逆はあまり聞いたことがありません。「恋多き女性」という形がせいぜいです。
社会は成熟すると大抵男系(男子が家を継ぐ)となること、男性はいくらでも自由にセックスできますが、女性は妊娠してしまうと1年近くの時間を取られることなどが、その原因でしょう。

それにしても、男女を逆転させてみようという発想は面白いです。そしておそらく最初はただその1アイデアから始まったであろう物語が、「何故そうなったのか」「そうなるとどうなるのか」を語るために肉付けされていく過程で、おそらく筆者も想像もしなかったような深いドラマを生み出していくことが素晴らしいです。

そして結局行き着くところは、将軍の孤独です。大勢の美男子に囲まれていても、いえ、囲まれているからこそ孤独が身に染みる。
さらに将軍が女性であることから、子供を得るということが男性の将軍以上に重いこととなり、世継ぎを作るために自らの腹を差し出す将軍の苦しみや惑い、悲しみが身に迫ります。
そうして得た子すら、容易く失ってしまう時代なのです(時代的に乳幼児死亡率が高いため)。男将軍であれば、母の悲しみまで負うことなく、また作れば……ということになりますが、女将軍は悲しみを背負ったまま、それでも世継ぎを作らねばと新しい男性を閨に迎え入れなければならない。

寂しい、とても寂しい物語です。

私にも好きな人がいますが、残念ながら彼は別の女性が好きです。
もし、私が女将軍で、その人を自分の大奥に迎え入れられたとしても、やっぱり振り向いてはもらえないのでしょう。そんな人だからこそ、好きなんですけどね。
恋は美しい。思い通りにならないから、最高権力を持ってしても得られないから、価値があり、素敵なのです。

誰もが寂しいけれど、寂しさと寂しさが出会ったとき、希に起こる奇跡。それを求めて今日も私たちは恋をします。

権力というものをなまじ得てしまったがために、「私」は寂しくても、相手は「私」ではなく「権力」に恋しているから寂しくない。
……それが「大奥」の悲しみです。


大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

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