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「ブラックペアン1988」:駆け抜けた青春、取り残された痛み [小説]

 筆者――海堂尊により、現在進行形で語り続けられる、桜宮市のクロニクル(物語)。これはそこから約20年さかのぼった過去のお話です。今は要職に就いている人々が第一線で生々しく働き、主人公達がまだヒヨコ以下の卵だった時代。あの人にこんな過去があったのかという思いと、この人がああなるのかという思い、過去と未来が交錯し、シリーズファンにはたまらない出来となっています。
 また単独の物語としても、アクの強い外科医たちの現場でのぶつかり合い、そして出世や政治ゲームとして、スリリングな展開が待っています。作者が実際に体験した、医局に入ってすぐの研修医が体験するカルチャーショックも、生々しく描かれています。作者は違いますが「白い巨塔」の時代(1960年代)、そしてこの「ブラックペアン1988」の時代(1980年代)、「チームバチスタの栄光」の時代(2000年代)と、大学病院という異世界にあって変わるものと変わらないものがあることもうかがい知れ、興味深いです。やはりどちらかというと外伝的位置づけとして読む作品でしょう。

 ボリュームもそんなに多くありませんが、それだけにシンプルかつ詳細な手術の記述なども多く、何度も読み返せる味わいがあります。
 しかしこの作品を持って語るべき事があるとしたら、それは何かと考えた場合、私の頭に浮かんだのは「その後」が分かっている登場人物達、つまり約20年後も医局に残って活躍している人々ではなく、この物語の中で医局を去ることになる人物でした。
 そう、大学病院の教授選が激しいことは様々に描かれていますが、そこに至るまでもひたすらに勝ち抜き続けなければならない争いがあるのです。20年後が知れる人々は、どんな形であれ、20年を生き延びた人々なのです。

 私はかつて父のツテで、個人医院にて事務のバイトをしていました。受付から薬出し、診察室内での補助、PCによる保険の点数計算と、治療以外のあらゆることをさせてもらい、貴重な経験を得ました。
 先生は物静かで優しい方で、個性的で気が強い(といっても意地悪なわけではない)奥様いわく、「宝くじに当たったような」旦那様だということでした。先生は本来循環器科が専門でしたが、医院は小児科循環器科として看板を掲げており、とても繁盛していました。
 ただ一度、私は本来先生は大学病院にて専門の循環器の研究をずっとしていたかったのだけど、資産家の娘である奥様と結婚して開業させてもらい、大学を去ったという話を聞いたことがあります。奥様のご実家としては初期投資で娘に一生の生活保障をしてやれ、先生にとっては開業資金を出してもらえやはり生活の保障が得られるという、そんな話でした。
 私はその話を大して特異なことだとも思いませんでした。ずっと私立の学校に通い、中学受験もしていた身としては、奥様側、旦那様側、どちらの立場になる子も、同級生として身近にいたのです。

 例えば、小学生の頃から将来は医者になるものと決められて、週5日の塾に通い、小学受験、中学受験、大学受験(その後の医師資格国家試験)と、ずっと戦い続けることを親に望まれた子供達。
 一方で、ミッション系の女学校に入り、エスカレーターで大学まで進学し、やけにいい条件で企業に就職し、やがてはその企業内で結婚相手を見つけて寿退社することを見込まれている女の子達がいました。同様に、大学在学中あるいは卒業してから、大学医学部に秘書としてアルバイトに行くというルートもあります。もちろん配偶者探しのためです。
 私の周りでは、あまりにもそんな世界が当たり前過ぎて、高校を中退して社会学部へ行く自分ははっきり言って変でした。医者にならないなら、後は弁護士か、さもなければ親の跡を継ぐ、という世界だったからです。

 さて大きく脱線しましたが、要するにそれが幸せなのかということです。
 中から見てきた身としては、外から思われるほど不幸ではないと言えます。親の敷いたレールを歩むことにも、やりがいがないわけではないのです。レールがなくて困っている人もいるくらいですから。また、本当に嫌ならば、レールの外に出て行けるはずなのです。
 我々の親は子供の頃から、我々にたっぷり投資をしてくれました。それはすべて、私たち自身の将来のためです。親自身の経験に基づく、「なるべく確実な将来設計」のためなのです。……だからそんなに不幸ではない。
 でも、話を戻して、私がバイトをしていた小児科循環器科の先生は、幸せだったのかなとふと思いました。私たち――つまり私と同級生達の幸せは、ひたすら勉強してどこまでも翼を延ばし、飛び立っていくという部分に根源があったと思うのです。詰め込みだろうとなんだろうと、一流の塾で一流の教育を受けるということは、楽しいことだったのです。塾を卒業するとき、「これからは自分で学びなさい」と塾長からバトンを渡されました。人から見れば"落ちこぼれ"の私ですら、その言葉を忘れたことはありません。そして多くの友人は、その言葉のままにひたすらに努力を重ねて一流の医大へと進学していったのです。……だとしたらやっぱりその先は、医局に残って医学の先端を走り続けることが、幸せだったんじゃないかな、と。

 けれど、こうして小説の中にも描かれるように、大学病院というピラミッド型組織の頂点に登り詰められる人はわずかです。頂点でなくとも、自分のしたいことをし続けられれば幸せなのでしょうが、残念ながら、余所の世界でも言われるように「自分のしたいことをしたいなら、偉くなれ」というのが現実なのです。
 そしてそれが出来なかった人――つまり自分がしたいこと(において失敗した人)ではなく、出世や政治を間違えた人――は去っていく、そこが大学病院や官僚組織といった偏差値キャリアコースの歪な部分なのでしょう。
 そう考えれば、この小説内において「去る」ことになった彼はまだ幸せです。彼は彼自身の妄執によって破滅したのですから。ただ、その一度の失敗が取り返しのつかないものであったところに、やはり厳しさを感じます。

 「その後」を知ることのない、行方不明の彼にも20年後は訪れていることでしょう。おそらく街の開業医か、勤務医か。あれだけの人物が埋もれていくままだったとは思えない一方で、「行方は知れない」と断言されているとことに、大学病院という象牙の塔と、それ以外の世界との乖離を感じるのです。
 幸せの形は人それぞれ。幸せはどこにでもある、そう言ってしまうことは簡単です。だけど自らの意志によらずして失ってしまった、あのはるかなる高みを「なかったこと」にしてしまうこともまた、1つの冒涜ではないでしょうか。
 私たちは、ただひたすら高みを目指して走り続けたのです。それが青春でした。例え外部の思惑がどうであろうと、未来にどんな薄汚れた階段が待っていようとも、駆け上るつもりだったのです。
 ゆえに私は、この物語は未来が存在する「彼ら」のためではなく、ただこの物語のためだけに生み出され、物語の終わりと共に姿を消す「彼」のためのものだと考えます。

 ブラックペアン――体内に残されたままの、真っ黒な止血鉗子のように。栄光の陰にある挫折、いつまでも癒えることのない傷を、決して忘れないために。 

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
  • メディア: 文庫



ブラックペアン1988(下) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(下) (講談社文庫)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
  • メディア: 文庫


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「イノセント・ゲリラの祝祭」:本当に書きたいものを [小説]

 本当に書きたいものを書ける作家は幸せです。おそらく大多数はそうではないでしょうから。例えそれがアマチュアであってすら。
 このことは、真っ先に想像される外部からの圧力によるものだけとは限りません。真の敵は内側にあります。ミュージシャンを想像してもらえれば、もっと分かりやすいかもしれません。自分が歌いたい歌と売れる歌、どちらと書くか苦悩する姿は、よく漫画やドラマで描写されるものです。特に前作が自分でも思いもよらないくらいのヒットを飛ばした場合、このジレンマはより深刻なものとなるでしょう。
 この本の作者、海堂尊は「チーム・バチスタの栄光」で華々しいデビューを飾りました。同作品はドラマ化され、映画化もされ、さらに続編「ジェネラル・ルージュの凱旋」もまた映画化されました。とかく映像化が乱発される昨今、その作者の次なるシリーズ作品である今作も、映像化したい、そしてさらなるヒットを呼びたいとは、関係者誰もが考えることでしょう。

 しかし今作品は、まったく映像向きではないのです。
 ストーリーは、お馴染みの主人公コンピ、田口公平医師が、厚生省の型破り官僚白鳥圭輔によって、霞ヶ関中枢へと送り込まれ、またしても「窓際でボンヤリ暮らしたい」という本人の希望とは裏腹に、大騒動を巻き起こしていくというものです。型にはまった官僚行政の上に鉄槌を振り下ろす……といっても、鉄槌に振り回されて、気がついたら相手の脳天を直撃していたといったほうが正しいかもしれません。さらに個性的で魅力的な登場人物達も脇を飾ります。
 これだけ読むと痛快な物語です。しかしこれらの活躍はすべて、長ったらしい名前の委員会上で、言論としてやり取りされていくのです。それは手術室でメスを振りかざし、人の命を救ったり、あるいは逆に原因不明の死に直面したり、救急医療現場で鮮やかに現場を指揮することとは、大きな違いがあります。ただし、映像化するという前提に立つならばですけれど。

 一方で、作者であり、現役の医師でもある海堂尊にとっては同じ事なのです。これらのエンタテイメント作品は一貫して、エンタテイメントの皮をかぶった。現在の医療現場に対する問題提起なのです。特にAi(オートプシー・イメージング)と呼ばれる、死亡時画像診断、例えば遺体をCTスキャンにかけることによって、解剖に比べ遺体を損傷することなく、短時間かつローコストで正確な死因を知ることが出来るシステムを作り上げるための。
 処女作「チーム・バチスタの栄光」からずっと、作者がライフワークとして主張してきたその医療現場改革への主張の、1つの頂点がこの「イノセント・ゲリラの祝祭」です。だからこそ、この作品の登場人物達は激しい議論を戦わせ、大いに語り合います。語らなければならなかったのです。

 すでにベストセラー作家としての地位を確立していること、本業は別にあることを換算しても、作者の意志の固さには尊敬の念を抱きます。なぜなら、ヒット作を自己模倣する背景には、読者(客)を楽しませたい、彼らの期待を裏切りたくないという、営利を越えたなによりの欲求があるからです。
 そして、おそらく作者はこの壁すら乗り越えているのでしょう。楽しませる自信があるのでしょう。この作品、「イノセント・ゲリラの祝祭」には、決して読者を置き去りにした、独りよがりな熱弁があるわけではありません。――「何かを主張したい」作家は、しばしばこの罠に陥ってしまうものですけれど。
 議論の連続、それを飽きずに読ませるために、先述したような豊かすぎる個性を持ったキャラクターを配し、人が死ぬわけではありませんが、最後まで先が読めないミステリ要素も配しています。

 本当に書きたいものを書ける作家は幸せです。それは強い意志と、本物の実力によってのみ、可能なのです。

イノセント・ゲリラの祝祭 (上) (宝島社文庫 C か 1-7)

イノセント・ゲリラの祝祭 (上) (宝島社文庫 C か 1-7)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2010/01/08
  • メディア: 文庫



イノセント・ゲリラの祝祭 (下) (宝島社文庫 C か 1-8)

イノセント・ゲリラの祝祭 (下) (宝島社文庫 C か 1-8)

  • 作者: 海堂 尊
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2010/01/08
  • メディア: 文庫



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「月読」:真実とは異常なもの [小説]

 タイトルは「つくよみ」と読みます。この本は、現代日本のパラレルワールドを舞台としたミステリです。この世界では、人は死ぬとき、しばしば「月導(つきしるべ)」と呼ばれる証を遺します。「月導」の形態は実に様々で、巨石やねじ曲がった標識といったものから、病室を染める色とりどりの絵の具、身も凍るような寒さといった形のないものまであります。そのどれもに共通するのは、「普通ではない」「尋常ではない」ということです。
 そして「月読」とは、その月導に触れて、死者が遺した最期の想いを聞くことが出来る異能力者たちのことです。
 ただし、そうやって聞いた想いは必ずしも遺された者たちの期待に添うようなものではありません。聞きたくない言葉もあれば、そんなこと?と拍子抜けしてしまうような、些細でつまらないものであることも珍しくないのです。さらにそれは、生前の故人の人徳や人柄とは何の関係もありません。現実の無情さ、ですから本物の月読たちは、自分たちの能力を誇ることなく、むしろ社会の影に隠れるようにして暮らしています。

 この作品はミステリなので、当然人が死にます。そして月導を遺します。月読も登場し、それら遺された月導を読んでいきます。
 だからといって、それがそのまま解決への手がかりを示すわけではありません。先述したように月導の遺すメッセージは、非常に断片的で曖昧で気まぐれで、ミスリードをおこす要素に満ちあふれています。

 それでも人は、月導を読みたいと願います。わずかな手がかりでもいいから欲しい、それはわずかな言葉でもいいから故人の遺志を知りたいという、まったく事件性のない場合でも、遺族が抱くであろう感情と重なります。
 月は高みにあって手の届かないもの。それでも人は、月に憧れ、月には何があるのだろうと思い、月に行きたいと願ったのです。
 この作品世界では、米ソが冷戦時代に月導の研究にあけくれたため、結果として宇宙開発が進まず、人類は未だ月に到達していません。このことは、とても示唆的です。

 本来ならば得られないはずのものに手を伸ばすとき、そこにはリスクがあるのです。宝石だと信じていたものが石ころかもしれない、尊敬していた人が実は犯罪者かもしれない、月を目指したロケットが暴発してしまうかもしれない。
 それでも人は手を伸ばします。そうして、真実の断片を、この世の真理の欠片をつかみとっていきます。……そのことが、例え幸福とは限らなくても。

 「真実は人を必ずしも幸福にしない」。それはミステリ小説全般に言える、1つのテーゼです。しかしミステリでは、最後には真実が、真犯人が明らかになるのです。

 真実を人に突きつける月導が、必ずどこか異常で、歪で、"この世ならざるもの"であることは、そのまま真実というものの非日常性、一歩踏み出さねば決して捕らえられぬものであることを示しているのかもしれません。
 ……それでも、この作品世界でも、人類はいつか月に到達するでしょう。

月読 (文春文庫)

月読 (文春文庫)

  • 作者: 太田 忠司
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2008/01/10
  • メディア: 文庫



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「白い巨塔」:まるでガン細胞のように [小説]

 女性作家の中には希に、男性よりも男性を描くことが上手い人々がいます。この本の作者、山崎豊子もその一人です。
 財前五郎の魅力とは何なのか。天才的な外科医でありながら、傲慢で権力欲が強く、出世に飽くなき情熱を燃やす一方で、成り上がり者ならではの小心さ、土壇場での弱さも持つ。ダークヒーローというにはあまりに泥臭く、格好良さというものがありません。しかしどうしようもなく惹かれる"臭い"があります。フェロモンというものでしょうか。
 不完全だからこそ、みっともないからこそ、どうしようもない、私が支えてあげないとずぶずぶ惹かれてしまう、そんな魅力です。

 一方で、もし私はこの世界に生まれ変わるならば、財前五郎のように生きたいと思いました。彼と対のようにして描かれる里見脩二の、清廉潔白で、正義のためならば不利益を被ることもおそれない生き方は美しい。しかし美しいがゆえに思い描くことは容易です。実行することだけが、とても難しいのです。
 財前五郎の生き方は、ジェットコースターにも似て先の見通しがつきません。その中をただ自分一人の力と意志を持って生き抜いていくことは、「生」そのものであるように思います。

 ただ、この世の大勢の人に理解されるかは分かりません。作者はおそらく財前の生き方に惹かれていたのでしょう。当初、この本が連載された時、財前は人生の栄光をつかんだまま話を終えます。しかし世の反響が大きかったために書かれた続編では、うって変わって彼の転落が描かれていくのです。
 それでもとことんまで落ちるのではなく、途中で死という形で人生を打ち切られたことは、作者の財前への抑えきれない執着であるような気がしてなりません。

 しかし私は……誰かがやらなければならないと思うのです。恵まれた人が恵まれた道を歩み、上に行くこと。清廉潔白な人が潔白なまま、相応の生を歩むこと。人の世はそれだけでは済みません。その下に、才能か人格か生まれか、何かが不足して、ゆえにそのままでは上になど決して行くことが出来ない人達がいるのです。
 そんな人達がそのまま沈んでいく世の中が正しいのか。そんな人達が泥臭く這い上がる世の中は間違っているのか。そんな人達が引っかき回す世の中こそ、この世のあるべき姿ではないのか。なぜなら、この世界には恵まれた人より恵まれない人が、人格者より非人格者のほうが多いのですから。
 財前五郎はダークヒーローなどではなく、ただの等身大の人間なのです。

 それでも彼の生き方が、あるいは人格が正しいとは思いません。彼を「正しくない」と断じることによって、人々は自らを省み、襟を正します。

 誰かがやらなければならないのです。恵まれなかった我が身を世界に向かって打ち付け、それでも「正しくない」と断罪されることで、この世界を前に進めることを。……そう、まるでガン細胞のように。あるいはウィルスのように。
 人はそれをヒーローとは呼びません。それでも、誰かがやらなければならない役目なのです。
 人類はまだ、ガン細胞を克服することは出来ていません。


白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

  • 作者: 山崎 豊子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫



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「トワイライト」:危険なものばかりを愛する [小説]

 最初は大して期待していませんでした。買ってみようと思ったのは、たまたま大学から教育支援金の一部が図書カードの形で返ってきたからです。あとはまあ、カンです。それで文庫になっている分、8冊を一気買いしました。
 しかし自分のカンもなかなか捨てたものではないと、もう人生で何度目かの自己満足に浸ることとなりました。

 基本は吸血鬼と人間の女の子のラブストーリーです。吸血鬼もの、吸血鬼と人間の恋愛もの、共にかなり使い古されたテーマですが、この作品のずば抜けたところは、とても完成度が高いところです。
 例えば、「もしドラキュラがヘルシング教授に勝っていたら?」の設定で、虚実おりまぜた歴史上の人物の半分以上を吸血鬼にし、一大叙事詩を描いて見せた、キム・ニューマンの「ドラキュラ紀元」のような尖った部分もはっとするような目新しさも、この作品にはありません。
 しかし伏線をきっちりと張り、登場人物達の心情を脇役に至るまで細かく描写し、読者を飽きさせずに次から次へとドラマチックな展開を繰り広げていく部分において、この作品は卓越しています。
 ただし基本が恋愛ものだということははっきりしていますので、恋愛映画に興味のない人が恋愛映画を観てもひたすら退屈なように、恋愛ものを求めていない人がこの本を読んでも、面白さは分からないでしょう。

 実際、この作品はかなり少女マンガっぽいです。
 主人公の女の子ベラは、両親が離婚し、母親の再婚に伴って父親の方と暮らすために街にやってきます。炊事洗濯も完璧で成績も良く、理性的で主体的です。自分の周りを取り巻く謎も、自らどんどん解決していく能力があります。一方で吸血鬼に対して「それは大したことじゃない」と言ってしまう博愛主義と勇気と無謀さを持ち合わせ、運動音痴であり、恋愛に対しては非常に自分に自信がなくて臆病です。
 恋愛マンガの主人公には割と居るパターンなのですが、小説では意外と珍しく、主人公がただただロマンチックで守られ、流されるだけではなく、強くて賢いという部分が私はとても気に入りました。
 でも、劇中でもなんでも言われているのですが、彼女は危険を引きつける存在であり、そればかりか自ら危険なものばかりを愛してしまう子なのです。

 吸血鬼だろうが狼人間だろうが、ふとしたことで理性を失って自分を殺してしまうかもしれない存在を、「そんなの大したことじゃない」と言ってよき友人、あるいは恋人にしようとする気持ち。それはどこから湧いてくるのでしょう。
 博愛主義なのでしょうか。それとも、これが若さというものなのでしょうか。彼女はちゃんと、自分が死んだら父親も母親も悲しむと分かっている、どちらかというと「両親よりもしっかりした子供」タイプの娘なのですけれど。

 彼女はたぶん……とても自由なのです。それは確かです。肉体ではなく、精神が自由で柔らかい。若さゆえの束縛のなさと、賢さゆえの世界の広さ、その両方が彼女の中には宿っているのでしょう。
 そう考えると、彼女がいずれは永遠の若さをもつ吸血鬼になることを選ぼうとしていることも、自然に思えます。吸血鬼もまた、永遠の若さと悠久の時を生きる賢さを持つ生き物ですから。
 ただそれは孤独なことでもあります。世の中の大半の人はそうではありませんから。実際にベラは、ちょっと孤立したところのある女子高生です。……だから危険を愛する。彼女にとって危険とは、自分を必要としてくれる、受け入れてくれる存在なのでしょう。

 危険ばかりを愛すること。それを貴方は危ういと思いますか。羨ましいと思いますか。何故だろうと思いますか。悲しいことだと思いますか。……素晴らしいことだと、思えるでしょうか。
 何が正しいのかは、たぶん問題ではありません。これは単に生き方の問題です。安全な生か危険な生か、人間の命か吸血鬼の命か。ただ人はその間で揺れ動きます。
 ベラのように軽々と境界線を飛び越えていく人間は、やっぱり珍しい。その先に、受け止めてくれる優しくそして危険な腕があったことは、彼女にとって人生で一番の幸運だったのでしょう。
 ……例えそれが、人としての彼女の命を終わらせることであっても。


トワイライト 上 (ヴィレッジブックス)

トワイライト 上 (ヴィレッジブックス)

  • 作者: ステファニー メイヤー
  • 出版社/メーカー: ヴィレッジブックス
  • 発売日: 2008/04/19
  • メディア: ペーパーバック



トワイライト 下 (ヴィレッジブックス)

トワイライト 下 (ヴィレッジブックス)

  • 作者: ステファニー メイヤー
  • 出版社/メーカー: ヴィレッジブックス
  • 発売日: 2008/04/19
  • メディア: ペーパーバック



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「家畜人ヤプー」:私たちは平等に価値がない [小説]

 奇妙なものです。遠い未来、日本人が奴隷以下の存在、家畜人ヤプーとして使役され、各種肉体改造までほどこされ、身長12分の1以下のピグミーから巨大化された人間馬まで、はては食用から人間便器から自慰道具に至るまで、いかに家畜以下の存在として扱われているかを克明に描いたこの小説。さらに社会の中程には半分だけ人権を認められた黒人奴隷がいて、一番上には白人がそれも女性上位の社会を形成して君臨するという、差別に充ち満ちたこの小説。
 それを読み終わって、私がまず思い出した事はかのスタンリー・キューブリック監督の名作映画「フルメタル・ジャケット」におけるハートマン軍曹の名台詞、「俺は厳しいが公平だ 人種差別は許さん 黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん すべて――平等に価値が"ない"!」でした。

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「スラムオンライン」:ゲームと青春とバーチャルとリアルを [小説]

 それは今から振り返ってみれば本当に短い間の事、しかし当人達にとってはやり尽くし極め尽くし飽きてしまうまでの本当に長い間。バーチャファイターというゲームがありました。
 私はいわゆるファミコン世代で、物心着く頃にはファミコンがあり、小学校でスーパーファミコンの洗礼を受け、中高生の時期にプレステとサターンどちらを買うかを悩み、さらに64や次世代機へと続いてく渦中をマトモに浴びています。バーチャファイターのブームもその歴史の中の一つ。私自身はこのゲームにはほとんど触れませんでしたが、当時はまだゲーム雑誌を購読していた頃。紙面上だけでもその凄い盛り上がりは実感していました。当然身の回りでもはまっている人間がいくらでもいました。

 その頃、ブームが少し収まったくらいの時期に「東京ヘッド」というノンフィクション本が出版されました。私にとって真にバーチャファイターというゲームのことが忘れられなくなったのは、この本によるところが大きいです。

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「彩雲国物語」:ライトノベルは男女平等の夢を見るか? [小説]

 ライトノベルという分野があります。古くはジュブナイル小説とも呼ばれたこの分野、主な読者層を中高生に設定し、改行が多いとか文体が口語調に近いなどの小説としては緩めの縛りの中で、学園物・ミステリ・アクション・ファンタジー・SFなどの多彩なジャンルに渡って展開される小説レーベル群です(参照:wikipedia)。
 ちなみに「主な読者層を中高生に」のくだりは、「当初はそのような目標を掲げ」あるいは「建前として」くらいに読み替えていただいても構いません。

 ともあれ私はそういった小説群も時々読むのですが、最近はこの「彩雲国物語」というシリーズに手を出しました。そうして読み進めるうちに、どうしても気になったことがあるので書いてみようと思った次第です。テーマはタイトルどおり「ライトノベルは男女平等の夢を見るか?」。
 ・・・ちなみにフェミニズム(ジェンダー論)は社会学の一部門でありますが、なかなかに微妙な分野で攻撃的にもなりやすければ反発も多いので、私の「男女平等」に対する考え方を最初に書いておきます。

 私は男女平等とは部分概念だと思っています。つまりある分野に関しては男女平等という考え方(定義)も存在しうるし、現在の人類状況としてはその方向性を目指すことが求められているかもしれない。しかし総合的に、つまり全社会的にあるいは全世界的に全状況的に「男女平等」というものは、そもそも概念として成立しえないし、したがって存在することもあり得ない、という考えです。
 というわけで、ここでいう「男女平等」もとある分野に限った男女平等ということになります。その分野とは家庭外労働、家庭の外で賃金あるいはそれに代わる対価を得るための労働という分野です。簡単に言えば「職業」あるいは「仕事」ですね。

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どたばた:「アルファブロガー」という本 [小説]

 明日に向けてどたばたしています。旅行の物質的準備は大体整いました、泊まる宿も往復の交通手段も確保しましたが、お勉強が全然足りていません。民主党の国民投票案についてとか、その論点問題点について、また政界の現在の状況(ちょっと目を離していました)。自民党サイドの現在盛り上がっている話題。内閣改造については明日東京で新聞を買って情報把握するしかなさそーですが。

 そんな中、宿題まで出された方もおられるようで。すみません、私が住んでいるところは田舎でそんな本はすぐには手に入りませんです。アマゾンで注文したら間に合わない期間でしたし。今回は勘弁して下さいー。代わりに今日大阪でこんな本買ってきました。

アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから

アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから

  • 作者: 徳力 基彦, 渡辺 聡, 佐藤 匡彦, 上原 仁, FPN(フューチャー プランニング ネットワーク)
  • 出版社/メーカー: 翔泳社
  • 発売日: 2005/10/21
  • メディア: 単行本

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「流星ワゴン」:オデッセイの辿り着く場所 [小説]

 重松清さんの作品には、いつも「何か足りない」と感じてきました。それは決して作品として足りないという意味ではないのです。氏の筆致はいつも現実の社会問題を浮かび上がらせ、その中で精一杯もがいて生きる弱くて優しい人達に、優しい理解の眼差しを向けながら、でもどこか醒めている。現実に対して適切な問題意識を持ち、何故そういう問題が起こっているのかについても深く理解しているのに、解決という段階においては何故か力及ばないとあきらめているふしがある。そう感じてきました。一つ一つの作品で見ればそれは気になることではないのに、幸か不幸か重松さんは多作な作家であり、そして書き連ねれば連ねるほど見えてくるものもあるのです。
 しかしこの「流星ワゴン」という作品は、重松さんがご自身の限界を突破され、「解決」に向けて一歩を踏み出したという点で非常に貴重な傑作だと思います。

 どうしてそのブレイクスルーが起こったのか。それはまず、舞台設定の妙にあるでしょう。主人公は重松さんのいつものパターンである現実に敗れ力尽きつつある30代のサラリーマン。彼のささやかな幸せのかたちであった家庭は崩壊し、捨ててきた故郷で年老いた父とは理解し合えないまま死に別れようとしています。彼自身、もう人生に疲れ果てて「死んでもいいかな」とふと思います。そんな時、彼は不思議なワゴンに出会うのです。
 そうして主人公は時の狭間に彷徨い込み、自分と同じ年の父親と共に、自分の人生を振り返る旅に出ます。ほんの少し前の自分の人生、その時は幸せだと思っていたけれど、すでに崩壊は始まっていた、今ならそのことが分かる貴重な日々を再び体験するのです。さあ、人生は変えられるのか、やりなおせるのか・・・。


 先述したように、私は重松さんの魅力であり弱さでもある部分は、現実問題を浮かび上がらせることはできても、その解決となると途端に尻込みしてしまうこと。「現実はそんなに簡単なものじゃないんだ」という真理、真理ではあるけれども逃避でもある場所に逃げ込んでしまうことだと感じてきました。私はそれも決して嫌いではないのですが、ただあまりにも同じことが重なってくると、どうかな?と思うのです。それは手を変え品を変え角度を変えて、何度も何度も書き直すほどに重要で価値のある真実だろうかと。
 けれどもこの作品において、重松さんは意図してなのか結果的になのかは分かりませんが、ご自身のそういう部分と正面から向き合われました。「現実は変えられるのか?」。変えられないのです、やっぱりそんな簡単ではないのです。でも主人公は変えようとあがきます。それはそうでしょう、だって状況的にそう追い込まれているのですから。死ぬのではなく奇妙なワゴンに迷い込んでしまった彼は、いやおうなく現実と向き合わされ、戦わされます。
 巡り合わせの妙だなあと、私は思うのです。

 周りを彩るのはワゴンの主である橋本さん親子。彼らは免許を取っての初めてのドライブで、運転ミスにより親子共々死んでしまい、その無念からか未だに成仏できない奇妙な幽霊です。
 そして主人公と同じ年の、父親。親子にはよくありがちなことですが、主人公とは性格がまったく逆で彼にとっては反面教師的な存在であった父親。でも現実では今まさに死に行こうとしている、そしてだからこそ彼もまたワゴンに迷い込んできた父親。
 二人は朋輩(友人)となって、新しい奇妙な友情にも似た関係を築きつつ、一方で自分たちが過去に築いてきた関係をやりなおし、精算しようとします。・・・やりなおさずにはいられないのです。何故なら、主人公は父親がもうすぐ死ぬことを知っているので。まったく、絶妙の舞台設定だなと思いました。

 死という絶対的な存在の前では、人は誰しも神妙になります。逃れることの出来ない運命の前では、どういうわけか諦めにも似た開き直りが発生するのです。主人公が対面している死は、父親のものだけではありません。橋本さん親子の死もあります。そしてもう一つ、自分自身の死も。
 どうしてこのワゴンに迷い込んだのか。それは自分が死にかけているからではないのか、彼はその疑念を捨て去ることが出来ません。そして死ぬとしたらその前に、何かやっておくべきことがあるのではないかと・・・彼は手遅れになる一歩手前で、ようやく気付くのです。

 物語は静かに優しく進みながら、「解決」を求めます。解決できないという現実を何度もなぞりながら、本当に何も出来ないのかと模索を続けます。静かに穏やかに、夜を疾走するワゴンの中で。前に立ちふさがる信号機はすべて青にかわってしまう、不思議なワゴンの中で。
 さて主人公は、そして重松清という作家は「解決」できたのか。


 ところで、主人公達が乗り合わせるワゴンの車種はホンダのオデッセイなのですが、この本はさぞかし売上に貢献したのだろうなと、余計なことも考えてしまいました。私は一応車好きなのですが、走ることを楽しむ乗り物としての車が好きな者にとっては、ワゴン(ワンボックス)カーという車種は、図体ばかり大きくて重くて足は弱くてバランスは悪い。非常に「どこがいいのかわからない」車であるのです。まあオデッセイはその中では、比較的運転していて楽しい車らしいのですけど。
 けれども一方で、この本の中で語られたように、一家でワゴン車に乗って出掛ける幸せ。帰り道はきっと渋滞していて子供は遊び疲れて眠っていて、お母さんも疲れで不機嫌になりつつあり、それでもお父さんは一人孤独に運転席でハンドルを握るとしても、それでも確かにそこにある幸せ。その重さはずっしりと心に来るのです。
 BSアニメ夜話という番組の「クレヨンしんちゃん」の回で、コメンテイターがしんちゃんのお父さんについて、「上京した当時彼にはたくさんの夢があっただろうけど、それをたくさん捨てて、あきらめて、その結果としてしんちゃんのいる家庭がある」というようなことを言ったのです。あの言葉には、胸を射抜かれました。

 走る楽しさをあきらめた車。格好良さだとか、運転の楽しみだとか、機敏な挙動やレスポンスのよさを捨てた車。一番乗り心地がいいのは1列目(運転席)ではなく、2列目以降に設定された車。でも・・・それが悪いことだなんて、誰にも言えはしないのです。そんな車を、そしてその車を買う人間の気持ちを笑うことなんて、そういう車に夢を託す人達のことを笑う権利なんて、誰にもないのです。

 求めるのはほんのささやかな幸せだけなのですが、多くの夢を捨ててまでも求めるその幸せは、あまりにも儚い。人の親になるということは、家庭を持つということは、そんなにも大きなリスクの上に成り立っています。多くの人が尻込みする気持ちもよく分かります。
 だけどそれはまた、オデッセイの語源のように「偉大な冒険旅行」でもあるのです。

流星ワゴン

流星ワゴン

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/02
  • メディア: 文庫
 
 

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