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「大奥」:私は寂しい [漫画]

どんなに多くの異性に「好きだ」と言ってもらえても、自分が好きな人に振り向いてもらえなければ、それは無意味なのです。
もちろん魅力的な異性は好きです。見ているだけでも楽しい。周りに沢山いるならば、それに越したことはないと思います。
けれどやはり結ばれる相手は、自分が好きな人でなくてはならないのです。

……希に、あるいは希でもなく、多く好かれたい、多く恋われたいと思う人が居ます。私は彼らを見て、「何を探しているんだろう?」と思います。
それは水を飲んでも飲んでも渇きが癒えないのにも似て、とても苦しいことに見えるのです。いえきっとそれは大きなお世話で、花から花へと飛んでいくのも、楽しさはあるのでしょうけれども。

寂しいのはきっと誰もが同じ。それを埋めてくれる「誰か」を求めているのも、きっと誰もが同じ。

よしながふみの漫画「大奥」は、その名のとおり大奥を舞台にした物語です。ただし、男女が完全に逆転しているというところに特徴があります。
つまり将軍は女性であり、大奥にはその将軍の寵を競う大勢の男性がいるという設定なのです。出てくる将軍達は、家光に始まる徳川初期の実在の(と言っていいのか)将軍達であり、何故そのような世になったのかも、きちんと設定され、説明されています。

歴史上、一人の男性が多くの女性を囲うハーレムを持つことは珍しくありません。ただし逆はあまり聞いたことがありません。「恋多き女性」という形がせいぜいです。
社会は成熟すると大抵男系(男子が家を継ぐ)となること、男性はいくらでも自由にセックスできますが、女性は妊娠してしまうと1年近くの時間を取られることなどが、その原因でしょう。

それにしても、男女を逆転させてみようという発想は面白いです。そしておそらく最初はただその1アイデアから始まったであろう物語が、「何故そうなったのか」「そうなるとどうなるのか」を語るために肉付けされていく過程で、おそらく筆者も想像もしなかったような深いドラマを生み出していくことが素晴らしいです。

そして結局行き着くところは、将軍の孤独です。大勢の美男子に囲まれていても、いえ、囲まれているからこそ孤独が身に染みる。
さらに将軍が女性であることから、子供を得るということが男性の将軍以上に重いこととなり、世継ぎを作るために自らの腹を差し出す将軍の苦しみや惑い、悲しみが身に迫ります。
そうして得た子すら、容易く失ってしまう時代なのです(時代的に乳幼児死亡率が高いため)。男将軍であれば、母の悲しみまで負うことなく、また作れば……ということになりますが、女将軍は悲しみを背負ったまま、それでも世継ぎを作らねばと新しい男性を閨に迎え入れなければならない。

寂しい、とても寂しい物語です。

私にも好きな人がいますが、残念ながら彼は別の女性が好きです。
もし、私が女将軍で、その人を自分の大奥に迎え入れられたとしても、やっぱり振り向いてはもらえないのでしょう。そんな人だからこそ、好きなんですけどね。
恋は美しい。思い通りにならないから、最高権力を持ってしても得られないから、価値があり、素敵なのです。

誰もが寂しいけれど、寂しさと寂しさが出会ったとき、希に起こる奇跡。それを求めて今日も私たちは恋をします。

権力というものをなまじ得てしまったがために、「私」は寂しくても、相手は「私」ではなく「権力」に恋しているから寂しくない。
……それが「大奥」の悲しみです。


大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

  • 作者: よしなが ふみ
  • 出版社/メーカー: 白泉社
  • 発売日: 2005/09/29
  • メディア: コミック



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「ヨルムンガンド」:善でもなく、悪でもなく [漫画]

 まったく、久々に大当たりを引きました。これだからリアル本屋通いはやめられません。いえ別にリアルの本屋さんでなくてもいいのですが、数多く情報を仕入れ多角的に検討し検索をかけて結果出会うネットの出会いでも、最後にクリックするかどうかを決めるのは自分の勘。そこには数多くの外れクジがあるのですが、なぜ失敗したのかすら分析できないようでは、自分の嗅覚を磨くことはできません。

 そのような能書きはさておき。「ヨルムンガンド」は武器商人を主題にした漫画です。両親を最新兵器によって失い、武器を憎むようになった少年兵ヨナ。感情を殺した彼が出会ったのは、若い武器商人ココ・ヘクマティアルという女性。自らの私設部隊を率いて現場(つまり各地の紛争地帯)を駆け抜ける彼女は、彼に、「武器との付き合い方を教えてやる」と言った――。というのが、ストーリーの導入です。
 最近の漫画は第1巻からその真価が分かることは少なく、なんとなく将来性に期待して買い続けるかどうかを決めるのが一般的ですが、この漫画はそうではありません。一話だけでも、一巻だけでも、当たりか外れかを決められるポテンシャルを持っています。

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「GUNSLINGER GIRL6巻」:破滅に至らない過程 [漫画]

 一度死に瀕した状態から、機械の体を与えられることでもう一度新しい生を与えられた義体の少女達。外見上はまったく普通の子供と変わらないながらも、身体能力においてははるかに人をしのぎ、また条件付けという洗脳によって担当官と公社の命令には絶対に服従する一方、任務を離れれば普通の女の子でもある。そうしてテロリズムが横行する国の中で、銃を手に正義のない戦いの中で戦うために、生きていく悲しみと小さな喜び。
 そんな世界が展開する「GUNSLINGER GIRL」も6巻まできて、話も大きく展開しました。
 義体の少女達も新しく二期生が開発され、それに伴って物語もその二期生の最初の1体ペトルーシュカ(ペトラ)と担当官アレッサンドロを中心に新しく始まります。とはいえ、今後どのように彼らが従来の一期生たちと関わっていくのか、あるいは関わらずに新展開を進むのかは不明なのですけど。

 ただこのペトラとアレッサンドロの出会い、関係性の描き方を見ていて、この「ガンスリンガー・ガール」物語世界の特徴、これが優しい破滅への物語でありながら、破滅を回避しようとする強い力が働いていることを感じましたので、そのあたりから今回の感想をまとめてみたいと思います。

*以下、この巻の内容に触れていますのでご注意下さい。

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「DEATH NOTE 9巻」:天才になれなかった犯罪者 [漫画]

 タイトルは月(ライト)のことを指しています。
 7巻で大きな山があってからのこの漫画、多少迷走していた感がありましたが、ここにきて落ち着きを見出し新しい展望も開けたかなという印象を持ちました。
 私はその新しい展開を読み解く鍵として、「月=天才になれなかった犯罪者」というタイトルを掲げたいかと思います。

 以下、大きなネタバレはしていませんが、多少ストーリーの概略には触れている部分もありますので、読む予定のあるかたは既読してから見る事をお薦めします。

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「のだめカンタービレ」:ストイックな両想い(変態vsオレ様) [漫画]

 最近どこの本屋に行っても全巻平積みしてあるこの漫画。そこまでされるからにはさぞかし面白いのだろうと気になっていましたが、某受験が終わった後に「ご褒美よこせ」攻撃を家人にかけたところ、全巻大人買いしてくれました。やったー。まあ正確には買ってくれるとなった時点ですでに4巻までは自分で買っていたのですが。ああ、後半日待っておれば・・・ッ。それはいいんですけど。

 それで、面白かったのです。1巻から、というよりも1話から早くも引き込まれてしまいました。何がどうすごかったのかというのは、うまく言葉に出来ないのですが、名作の予感がひしひしとしていました。
 まずキャラ立てが絶妙でした。個性派ピアニストでなまけもの(生活においてもピアノにおいても)、ただし底知れない才能のある「のだめ」こと野田恵と、幼い頃から音楽に親しみ凄い才能を持ち、世界にはばたく指揮者志望でありながらよんどころない事情により海外に行けない体になっている千秋真一、この二人が主人公です。
 どちらも音楽に対して素晴らしい才能を持っているという点、でもそれがきちんと生かされていないそれぞれの事情、そんな物語作りとしての基本を押さえつつ、似ていないようであり似ているようでもあるこの二者を初回にいきなり配置したことで、この漫画の勝利は決まったなと思いました。

 のだめの才能は型破りな点にあります。彼女はピアニストなんですが、感性だけでピアノを弾いています。ですから譜面には全然正確ではないのですが、自分が弾きたいメロディのためには大きな手(ピアニストには大きな武器)を自在に操って複雑技巧をこなすことも苦にせず、しかし本人には全然自覚がないのです。
 一方千秋の才能はのだめとは正反対に、完璧主義者なまでの正確さにあります。元々指揮者志望ですから、譜面のすみずみまで理解し、自分のしたい演奏に向けて完全無欠にオーケストラを統率する。それが彼の求める音楽の姿です。そのためにはヴァイオリンもピアノも本職顔負けに弾きこなしますし、傲慢な態度の裏で日々の努力は決して欠かしません。
 こうして並べてみると全然似ていないように見えます。でも、やっぱりどこかこの二人は似ているのです。音楽が最優先であるところ。上手くなるためには手段を選ばないがむしゃらさ。・・・二人とも根本的に純粋なのです。
 そして何よりも彼らは、音楽に対して夢を持っている。上昇志向とはまた別のところで、音を楽しむこと、練習と技巧と曲解釈と楽器と演奏者たち、全てが渾然一体となって現れ出る奇跡の瞬間、それを心の底から求めていて、その存在を感じ取ることができる感性を持っている。・・・1話ではこのことが描かれます。それを読んだ瞬間に、私は「ああ決まったな」と思ったのです。

 いいキャラ立てとはどういうものかを考えた場合、私はそれを「そこに立っているだけで無限の物語を持つキャラクター」と定義します。のだめと千秋はまさしくそれに当てはまります。さらにこの二人はセットになることで、無限に無限を乗じた可能性を持つ、物語の主人公となるのです。私が感じ取った名作の予感とは、つまりそういうことでした。


 この漫画には他にも個性的で魅力的なキャラクターがたくさん登場します。クラシック界の人ってこんなに変な人ばっかりなんですかという、楽しさに満ちあふれています。クラシックもので面白いのは、その人のキャラクター(人間性)と演奏する楽器が切っても切り離せないことですね。茂木大輔さんの名著「オーケストラ楽器別人間学」や三谷幸喜さんの「オケピ!」でも描かれていましたが、フルートといえばお嬢様っぽくて、ティンパニは周囲に溶け込まないという意味での個性派で。
 よくもまあ、こんなに次から次へと変な人が・・・と、クラシック界の変人資源の豊富さには感心せずにはいられません。これに対抗できるのは大学教授連くらいだと思います。大学教授も変な人多いです。それはさておき。

 ただここでも、彼らたち脇の個性が上手く輝いているのは、一つ大きな要素があるからだと思うのです。それはのだめと千秋の恋愛です。
 まあ常識的に言って、少女漫画においてこの主人公二人は恋愛を期待される要素でしょう。実際、のだめは早々に千秋先輩に一目惚れ?し、千秋ものだめのピアノの才能に他とは違う何かを感じます。・・・けれど普通ならここで、当て馬というか三角関係要素というか、とりあえず外部からのお邪魔者が入ってくるのが常道なのですが、なぜかこの漫画はそれに失敗するのです。
 千秋には昔の恋人を、のだめには同じように個性的に楽器を弾く青年を、それぞれ出してみたりもするのですが、彼らは出てきた途端に実にあっさりと身を引きます。別にのだめと千秋はまだ付き合ってもいないのに、です。
 面白いなと思いました。のだめと千秋は最初から実は両想い状態のまま(一方は自分の感情を自覚していないというか、自覚したくないみたいでしたが)、別に大きな喧嘩をするわけでもなく、かわりに友達以上恋人未満な関係から足を踏み出すこともなく、ずうっと話を続けていくのです。そして周囲も何の疑問も持たずにそれが当たり前のこととして受け入れていくのです。

 恋愛に邪魔者やライバルを紛れ込ませるという手法は、恋愛をドラマティックにするという点で有効なのですが、一方で作中の人間関係に波風が大きくなりやすいという欠点があります。周囲のベクトルが主人公カップルに集中してしまって、物語全体で見た場合いびつになるだとか。嫉妬や失恋といったドロドロしたものも生まれやすくなりますし。
 でもこの漫画では、早々に主人公カップルとその周辺を切り離してしまいました。だから脇役たちは主人公たちのことを気にすることもなく、それぞれに自分たちの個性を目一杯輝かせてのびのびと、この漫画の中の世界で生きていくことが出来るのです。これも面白いです。


 最初から両想いで大きな障害もなく、ただしかたつむりのごとき歩みでほのぼのと進む恋。
 「最近そういうのが流行りなのだろうか?」とも一瞬考えましたが、まあ確かにその可能性は捨てきれないとはいえ、こういう関係はなかなか構築できるものではありません。

 恋愛漫画の難しいところは、恋愛が成就してしまうと話も終わってしまうということにあります。恋に落ちてから相手の気持ちを確認していくドキドキなどはドラマにしやすくても、両想いが叶った後というのは作りにくい。のろけ話というのが一般にあまり面白くないように、「もうあとは二人で勝手にやっちゃってください」の世界ですから、物語としては語りにくいのです。逆にここで波乱を起こそうとすると、喧嘩も「もう別れてやる」レベルになったり、お邪魔虫を登場させたらそれはイコール浮気になりかねないわけで、非常に泥沼。ですから、そうそう事件も起こせません。
 だから恋愛ものを描く場合は、作者はいかに恋を成就させないかに気を使います。

 のだめと千秋の恋がなかなか成就しないのは・・・結局のところ、二人の性格による部分が大きいでしょう。
 のだめはストレートに千秋のことが好きだけど、ストレートすぎて信じて貰えない。しかも彼女にとって自分が千秋を好きであることはあまりに自明のことなので、却って自分が忙しい時にはぽいっと彼のことを放り出してしまったりも出来る。天然魔性とはこのことですが、彼女の場合大いに自分自身の墓穴も掘っていますので、許してあげて下さい。
 一方の千秋は、私の見た感じでは最初からのだめを「特別」として認識していたとは思うのですが、それを認めたくない意識が猛烈に働いていたような気がします。一つにはのだめがあまりに変人であることがあり、もう一つはオレ様な性格で自分のペースで生きることを大切にし、色恋よりも音楽を全てに優先させる彼としては、のだめに対して本気で向き合うことに、本能的なヤバさを感じていたとしても不思議はありません。
 片想いの成就も大変ですが、すれ違っている両想いのこんがらがった糸をほどいていくのも、なかなかに大変なことです。特に、彼らにとってそれが生きていく上での本分でない場合には。


 そう、私はこの漫画の恋愛部分を作品を読み解く鍵としてクローズアップしてきましたが、「では「のだめカンタービレ」は恋愛物なのか?」と問われると、「うーん、恋愛も添え物でありますよ、程度かな」と答えます。
 この漫画の主題はあくまでも音楽であり、それぞれに巨大な才能を秘めながら、まったく別の理由によって飛び立てない二人の若者が、運命のいたずらとそれぞれの努力によって世界への階段を一歩一歩登っていく。等身大のサクセスドラマにあります。
 彼らはそれぞれ自分の力でその階段を上ろうとします。彼/彼女に助けてもらおうだとか、そんな甘えは欠片もありません(結果として助けてもらうことはあります)。彼らは音楽に対してストイックです。相手の音楽を聴く場合も、そこに彼/彼女への男女としての特別な感情はほとんど混入しません。一人の音楽家として相手に向き合います。
 だからこそ恋愛も、両想いのくせにストイックに、亀のごとき歩みでだけど着実に、そしてどこか応援したくなるような暖かさに満ちて進んでいくのです。

 非常に素晴らしいテーマと構成を持った、名作漫画だと思います。やっぱり後の巻に行くほど多少恋愛要素は濃くなってきていますが、私はそれはそれで楽しみにしています。変態vsオレ様の恋模様、楽しそうではありませんか。
 そしてもちろん二人が音楽の大海へとどのように身を投じ、どこまで泳ぎ着けるのかもとても楽しみです。その時、ストイックすぎる彼らがたった一人で努力するのではなく、かたわらに方向性は微妙に違うけれども根本的なところで同じように音楽を愛するパートナーがいることは、素敵なことだと思うのです。

 うむ、結局恋愛から離れられていませんが・・・。やっぱり、ストイックなかたわらに恋愛があり、性格も方向性も似ていないようで根本は同じで、両想いだから独立して他に悪影響を及ぼさない、この構造の妙には惹かれずにはいられないのです。
 クラシック音楽のごとく、実に精緻に織り上げられた構成と構造をもった、美しく楽しく歌うような漫画だと思います。

のだめカンタービレ(1)

のだめカンタービレ(1)

  • 作者: 二ノ宮 知子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/01
  • メディア: コミック


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「蒼天航路」:何かを求めている若者 [漫画]

 塩野七生さんのエッセイ、「サイレント・マイノリティ」の中に、ローマの英雄カエサルが、のちに自分を暗殺することになる若者ブルータスの演説を聴いて、言った言葉が引用されています。
「わたしには、あの若者がなにを欲しているのかはわからなかったが、なにかを欲することを強烈に欲していることだけは、よくわかった」(同書文庫版90ページ冒頭)。
 私は蒼天航路の馬超を見ていると、この言葉を思い出すのです。

 少しそれは彼にとって厳しい見方かもしれませんが・・・。しかし、ひとたび穿たれた天の存在を否定し、天道を正すと言い切る馬超の姿には、叛き、否定し、破壊しようとする強い意志は感じても、その後でどのような世の中を作っていくつもりなのかというビジョン(見通し)は見えない。
 まあ、若者にはよくありがちなことです。ですからそれ自体を良い悪いと断罪するつもりはありません。ただいかにも若いなと思い、そして危ういなと思うのです。


 ただし、このような馬超の姿は、徹底した現実主義者(リアリスト)である曹操には許し難かったことでしょう。彼は現在あるものの姿を否定しても、ではどうするかというビジョンは常に明確に持っている人間です。むしろ、こうしたいからこそ現在の何かを破壊するという、手段と目的の順序を常に見失わない人です。
 リアリストであればあるほど、理想だけを語り、理想のために自分(曹操)を殺そうとする、でもその後の見通しはない、などという馬超の観念論は許し難かったはずです。だから曹操があれだけ怒ったのも無理はありません。
 カエサルを暗殺したブルータスはそのことによって歴史に名を残しましたが、では彼が何かを成し遂げたかというと何もなさず、ただカエサルの偉大な理想とその計画を破壊しただけで終わったのですから。

 つまり、馬超には目的がないのです。今あるものを破壊しようとする、強い意志はあります。でもそのことによって何を成すのかと問えば、具体的なものは何も転がり出てこない。
 それでも破壊の意志だけで突っ走ることは出来るのです。目の前に破壊するべきものが転がっているかぎり。ここが観念論、(狂った)理想主義者の危険なところです。彼らは実のところ目的や将来のビジョンがなくても生きていけるのです。ただ、目の前に破壊するべきものがある限り。

*以下、理想主義者という言葉が何度も出てきますが、ここでいう理想主義者はボタンを掛け違えた理想主義者、珠に疵がついてしまった、何かが狂った理想主義者です。本来の理想主義者はこのようではありません。そのことを、追記しておきます。

 そして馬超がそうであったように、理想主義者は往々にして誇り高い。それはそうです。理想はいくらでも高く持つことが出来ますから。現実主義者はそうはいきません。現実っていうのは泥にまみれていて、綺麗事では片づかないものです。
 理想主義者は、その理想が否定された時には怒り狂います。誇り高いですから。その誇りが踏みにじられたと感じると、とても怒るのです。これがまた、危険なところです。彼らの怒りは自分自身を見失うほどに強い。そして理想主義者はその理想のためにはいくらでも命を捨てることが出来ます。何せ先のビジョンは持っていませんから。理想の前では命は軽いのです。
 ですがそんな生き方は、自分たちの目的を達成するためには泥にまみれ石にかじりついても生きようとする現実主義者には、大変許し難くうつるものでしょう。

 つまり、徹底した理想主義者である馬超と、徹底した現実主義者である曹操が合わなかったのは、無理もないことなのです。


 さて、そんな馬超は流れ流れたあげくに劉備に出会います。彼こそは、馬超に目的を与えてくれる人でした。
 馬超はおそらく自分にはビジョンがないということに、薄々気付き始めていたのだと思います。あの、人の本質をえぐり出す曹操ににらまれて、さんざんに現実に踏みつけにされれば、いかに若者といえども気付かずにはいられません。そうやって彼は自分の中にぽっかりあいている空洞に気が付いてしまった。

 そうしてボロボロになった馬超の前に現れたのが、「目的だけで生きている男」劉備です。天下を取り、万民が笑顔で暮らせる世の中を作るという非常に明確なビジョンを持ち、ただそれを実現する手段だけはちょっとばかり欠いていた男です。馬超という鋭く尖った矛は、それを天下万民のために使いこなしてくれる主に、ようやく出会ったのです。
 彼らがいかに相性のよい組み合わせであったか、今更語るまでもありません。

 私は馬超のような若者、彼の生き方も好きです。ただ遠くで見ているだけで、決して近寄ろうとは思いませんけど。
 蒼天航路の中でも、馬超がただ自分の中の理想を求めて突っ走っていた期間(文庫本では14巻)は、ほとんど彼が主人公のように輝いていました。劉備の元に降ったあとの馬超は、そこまで鮮烈な輝きは放っていませんが、それでも気高く美しい若者としてあり続けます。
 それは現実を手に入れた、本当の、そして本来の理想主義者の姿です。


馬超が活躍する巻
蒼天航路 (14)

蒼天航路 (14)

  • 作者: 李 学仁, 王欣太
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/01
  • メディア: 文庫



参考書
サイレント・マイノリティ

サイレント・マイノリティ

  • 作者: 塩野 七生
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 文庫

「蒼天航路」シリーズ
 曹操が羨ましかった男:曹操と荀イク
 私が踊るのはあなただけ:韓遂と成公英


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「蒼天航路」:私が踊るのはあなただけ [漫画]

 王欣太さんの漫画「蒼天航路」については以前の記事でもとりあげたことがありますが、今回は祝34巻発売記念に合わせ、また視点を変えて見てみたいと思います。
 以前フォーカスしたのは曹操と荀イクの関係でしたが、今回は涼州の韓遂と成公英の関係です。「乱を起こし叛くこと」を生涯の手段であり目的としたじいさんと、涼州においてその傍らに常に仕えていた美人さんです。文庫本でいえば14巻から16巻(単行本では27巻から32巻)にあたる範囲です。

 文庫版14巻324ページ、というより、その三百十四「離間の計」の最終ページといった方が分かりやすいかと思うのですが、ともあれ私はここのページが大変に気に入っています。
 夜の城壁の上で語りあう韓遂と成公英。「劉備と曹操 どちらかに仕えねばならぬといわれれば」「私は曹操を選びます」という成公英に対し、韓遂はステップを踏みながら「ほっほぉ」「そうか――」。「でも」、成公英も踊り出しながら「英がいっしょに踊るのは あなたおひとりでございます」。
 満月の下で踊り明かす二人の影。初読の時から、とても印象に残った場面でした。

 しかしよくよく考えてみると、この場面での成公英の台詞には謎が多いです。どうして劉備より曹操なのか、その理由は一切語られずに唐突に出てきますし、「英がいっしょに踊るのは あなたおひとりでございます」、台詞の美しさと意味深さに対し、やはりこれの理由もその後のうねりの中で流されていきます。
 元々大勢の人間が登場しては退場していく漫画、一人一人のキャラクターが必ずしも深く書き込まれているわけではなく、成公英はどちらかというと断片のみで語られているキャラクターかと思うのですが、それでもこれだけ印象に残るのは何故だろう。印象に残るってことは、この台詞には何か意味があるのだ。私はそういう風に考える人間なのです。


 そして一ヶ月ほど考えた結果、自分なりに出した結論は、「この漫画において成公英は涼州という土地の化身として描かれている」ということでした。

 美しい外見を持ちながら、漢民族とはどこか違う独特の顔立ちをしており、風俗(服装)にも涼州独自の文化の色合いが濃い。楽をたしなみ、常に韓遂の傍らに静かにたたずんでいて、彼に仕えている。自ら強く主張することはないが、自分自身の考えはきちんと持ち、時代に流されているようでいながら、韓遂を失い曹操に投降した後であっても誰にも侵されてはいない。・・・思えばそれは涼州という地そのものではないかと、考えたわけです。
 なにより一番、そう考えるに至った理由は、成公英にとって韓遂ただ一人は特別な存在であった、まさにその部分にあるのですが。
 「いっしょに踊るのは あなたおひとりでございます」。これはどう考えても特別な感情、もっといえば執着です。さらに分かりやすくいえば愛です。涼州という地は叛に生きる韓遂を愛した。韓遂もまた、涼州という土地を愛した。月明かりの下で踊る彼らの姿は、まさしくその象徴である。そう考えるとしっくりくるのです。

 韓遂は、漢王朝にそむいて戦い続けるだけなら、涼州にこだわらなくてもよかったはずです。むしろ中央から遠く離れた涼州は、真に漢王朝転覆を狙うには少々間合いが遠すぎるといわざるを得ない。それでも韓遂は涼州人である自分にこだわり続け、そしてそこに生きる異民族・羌族と共にあろうとした。
 趣味人である韓遂にとってはそれもまた一つの自分のスタイルであり、余興だったと思うのですが、愛なくして出来たこととは思えません。・・・まあ、あんまり分かりやすい言葉で縛ってしまうのもどうかという気もしますが。この場合はむしろ愛より執着と言った方が、妾を何人もはべらせていた男、韓遂には相応しいかもしれません。女を愛するように韓遂は涼州を愛し、そして成公英を傍らに置き続けた。

 そして、この蒼天航路における成公英の生き方は、まさにそのまま涼州に重なります。韓遂と共に踊り、彼の傍に居続け、楽と踊り(文化そのもの)を分かち合い、韓遂が死んだ後はただ静かに曹操に降って、涼州の誇りを守ろうとする。彼はもはや楽を奏でず、叛と共に踊った華やかなる涼州の姿はありません。しかし誇り高く、武を貫く涼州の生き様は残ります。
 つまり、最初に戻りますが、どうして「劉備と曹操 どちらかに仕えねばならぬといわれれば」「私は曹操を選びます」なのかといえば、結果的に涼州は曹操のものになったからなのです。まず結果(歴史)が先にあって、後から作られた台詞なのです。そう考えると、最後の欠片がはまります。


 それにしても、この私の仮説がある一定以上の説得力を持つとしてですが、土地の化身を傍においてはべらすとは、なんとエロティックなことでしょう。本来触れられないものを、触れられるものとして傍らにおくのです。そして楽を奏でさせ、自らはその音に乗って踊るのです。触れると触れられないの、このギリギリの距離感。そして両者の間に流れる特別な感情。
 成公英は一人の人であり、同時に涼州という土地の化身でもある。彼本人がそれをどう感じていたかは分かりません。しかし、「英がいっしょに踊るのは あなたおひとりでございます」。これを言った時の成公英の気持ちは、紛れもなく「快」であったことでしょう。

 一つの告白です、涼州という土地から韓遂への。劉備や曹操にいずれは吸収されるだろう、でも私はもはや彼らとは踊らない、私が共に踊るのは、韓遂ただ貴方一人だけ。
 それだけ愛されるだけの価値が、韓遂にはあったのです。30年間中央に叛逆し続け乱に生きた男、韓遂を、涼州は愛した。彼のために楽を奏で、共に踊った。涼州とはそういう土地であった。

 それもまた、蒼天航路という広大なる歴史の中では、小さな欠片なのですが。でもきっとその破片からは、妙なる楽の音と、満月の下で踊る二つの影が見え隠れすることでしょう。

――私が踊るのはあなただけ。


最新刊(どんどん凄みが増してますね、殿)
蒼天航路 34 (34)

蒼天航路 34 (34)

  • 作者: 李 學仁
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/07/22
  • メディア: コミック

 


一巻から蒼天航路 (1)

蒼天航路 (1)

  • 作者: 李 学仁, 王欣太
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2000/12
  • メディア: 文庫

 


追記:本当はここに馬超考も加える気だったのですが、膨大になりそうなのでやめました。次回までの宿題です。・・・続くのかー。(追記の追記、書きました

追記その2(7/29):「私は曹操を選びます」について、韓遂と曹操の単身馬上での会話のシーンに、成公英もいますね。だから曹操なのかも。今頃気が付きました。某様ありがとうございます。でもまあ、大筋は変わらないと思うので、本文は修正せずにおきます。てきとーです。


「蒼天航路」シリーズ
 曹操が羨ましかった男:曹操と荀イク
 何かを求めている若者:馬超


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「ブラック・ラグーン」4巻:三角形の力学 [漫画]

 この漫画は元日本の商社マンだった青年が、ふとしたことから会社に見捨てられて捨て駒状態で死地に取り残され、開き直ってその死地で生きていこうと決意するところで始まります。そして意外と適応性あることも発見されたりしつつ、ラグーン商会という海運輸送(主に非合法)をやっている小さなグループに所属して、世の中の汚い部分を沢山見ていきながら、でも何故か汚れきらずにその闇の世界を渡っていくという話でもあります。
 本名の緑郎(ろくろう)をもじってロックと呼ばれる彼は、汚れきらないがゆえに、闇の世界においてもなぜか傍観者であるという属性を獲得しています。その彼の視点から描き出される、硝煙と血と死の匂いが立ちこめる世界。

 「デスノート」や「ガンスリンガー・ガール」もそうでしたが、この漫画もやはり人がどんどん死んでいきます。魅力的な登場人物であろうとも、関係ありません。まあ前述の二作品に比べれば、主要な人物は死ぬというよりもただ退場することが多く、そういう点では安心感があるのですが、ともあれ疾走感はなかなかのものです。最近の一つの流れではあるのかなと、なんとなく思います。
 でもそれだけ殺伐としていながら、全体を覆うのは悲しみや絶望ではなく、むしろ乾いた清々しさというか、開き直りというか、そんな奇妙な明るさであるところも共通しています。
 それを支えているのは「ブラックラグーン」の場合、強い女性たちですね。強くそして爽やかに・・・いや、それは語弊があるな、爽やかというか支離滅裂に画面の中で暴れ回る彼女たち。作者はこういう女性がとことん好きなんだなという愛も感じるくらいです。
 ロックの相棒ともなる、ほとんど半ケツ状態のショートパンツを穿いた二丁拳銃(トゥーハンド)・レヴィ、アフガン帰りのロシア人大尉(カピターン)・バラライカ、広げたスカートの中から手榴弾が転がり出る暴力メイド・ロベルタ、山刀を操るスリット深すぎのチャイナ服な「ですだよ」姉ちゃん。実に華やかです。・・・華やかというとなんか語弊が。いや、血の花が咲くっていう意味で華やかなんだと取ってもらえれば。

 さて、この第4巻では舞台を日本に移し、ロックが故郷に帰ってきます。とはいえ彼はまだ、家族と対面する勇気が持てないでいますが。普段は女の子というより少年といったほうが相応しいような姿ばかりしている相棒のレヴィも、珍しいスカート姿なんてものを披露しつつ、英語の通じない異国で戸惑い&苛立ちまくり、でもなぜかそれが可愛いという意外な一面も見せてくれます。その一方で、平和な国でむしろ冷酷さを全面的にあらわにするバラライカ。・・・彼女は平和というものを憎んでいるのかなと、ちょっと考えてしまう程です。
 作者の博識、もしくは綿密な下調べはこの巻でも明らかで、今回はヤクザが題材なのですが、彼らの言葉遣いや考え方など、非常にリアリティを持って描いていかれます。
 これまでも銃器や軍事や、各国のマフィアたちそれぞれの考え方など、きちんと描き分けてみせてきた、作者らしいこだわりです。


 「ブラックラグーン」に限らず、前述の二作品などもそうですが、このように深いこだわりをもって描かれ、また容赦なく人が死んでいくという物語は、常に先鋭化して追い詰められていく危険をはらんでいます。
 人が死ぬってことはその分新しい登場人物が必要ってことですし、読者側にしても思い入れのある人物が次々と殺されて、それでも付いていこうと思うだけの魅力が常に提示されていなければ乗ってこない。しかしそのような速い回転と深いこだわりというのはなかなか両立し難いものです。
 単純に、時間の振り分けで考えても分かると思うのですが、こだわればこだわるだけ時間を食いますが、そのこだわった結果のキャラやシチュエーション造形も次々捨てていかなくてはならないんですから。

 作者も追い詰められがちですが、物語そのものも、「それでこの悲劇の行き着く先は?」的な期待、言い換えれば追い詰められ方をされていくものです。それをどう回避するか。

 「ブラックラグーン」においては、それは常に対立関係を三角形にするということで、なされているように思います。物語は主人公が所属するラグーン商会vs敵、という構図では必ずしもない。ラグーン商会に仕事を依頼してくる元が、そもそも味方とは限らなかったりしますし、また敵も一勢力だけとは限らなかったり、あるいは話の途中で内部分裂を起こしたり。つまりは目の前の敵と味方以外の第三勢力が常に存在するのです。
 三角形というのは、誰かが一人勝ちすることのない、膠着状態を作り出すにはいい形です。例えば、1つの勢力だけが力を付けようとすると、他の2つが一時的に手を結んでそれに対抗したり。また、2つの間で戦いがあってどちらかが勝利したとしても、あと1つが残っているわけですから、まだ話は続きます。その間にさらにもう1つ追加すれば、また三角形の構図が作れる。
 「ブラックラグーン」においても、それらの手法はよく用いられているようです。だからこの話は、スピード感をもって転がりつつも、行き詰まりを感じることなく、リズム良く転がり続けているのだと思います。

 「デスノート」はその点、一対一の対立関係にこだわりすぎた結果、第三勢力を上手く使い切れませんでしたし、「ガンスリンガー・ガール」は三角形以前にまず敵味方が不明瞭であるという点で、やはりこの方法論は使えていません。
 もちろんそれはただの一要素に過ぎず、総合的に見てどの作品が優れているとかじゃないんですが。ただ、「こういう特長がある」と言った方が正確ですね。

 ともあれ、三角形の力関係は燃えます。燃えると同時に、どこかで常にバランスが取れているという安心感もあります。今はどういう風に三角なんだろうと、勢力図を頭の中で広げる楽しみもあります。・・・それは私だけかもしれませんが。でもやってみると結構面白いですよと、開き直って薦めつつ。
 ちなみに私は張さんが好きです。あの人も今は比較的傍観者の立場にいますが、いつかきっとこの三角の力学の中に直接足を踏み入れてくれるのだろうと、期待して待っています。

作者ご本人のサイト:VIOLENT DOGS DIVISION

ブラック・ラグーン 4 (4)

ブラック・ラグーン 4 (4)

  • 作者: 広江 礼威
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/07/19
  • メディア: コミック
 

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ますむら版「グスコーブドリの伝記」:自己犠牲と善なるものへの信頼 [漫画]

 ますむらひろしという漫画家さんが宮沢賢治の作品を漫画にした、ますむら版宮沢賢治・童話集という本を持っています。私は元々この漫画家さんが好きで、アタゴオル物語など愛読しているんですが、その延長でこれにも手を出しました。
 ますむらさんは登場人物を基本的にすべて二足歩行する猫に置き換えています。それがまた、宮沢賢治の世界というものに、独特の彩りを添えています。猫たちによって描き出される銀河鉄道の夜の世界。
 漫画化するってことは一般的に読みやすくなる反面、小説を読んだ人がもつイメージを固定化し矮小化してしまうという危険性もはらんでいますが、この場合は思い切ってますむら色を強く加えたことで、例えばこれはますむら的解釈「銀河鉄道の夜」であるといった、分かりやすい主張がなされているように感じます。

 この全集には初期形と後期形二種類の「銀河鉄道の夜」を始め、「風の又三郎」や「どんぐりと山猫」など、代表的な宮沢賢治の童話が8編収められているのですけど、私がその中で最も心に強く残ったのは「グスコーブドリの伝記」でした。

 元々、自己犠牲という主題に何故か惹かれるという理由もあります。外国の童話ですが、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」などもとても好きです。私が一番好きな童話かもしれません。
 どうしてこんなに自己犠牲というものに惹かれるのだろうと考えた場合、一番分かりやすく思い浮かぶのは、子供の頃にキリスト教の教育を受けていることでしょうか。キリスト教というのはイエス・キリストが全人類の罪を背負って死んだという自己犠牲から発していますから、それを貴いもの、素晴らしいこととして重要視しているのです。
 しかし私はキリスト教徒というわけではありません。キリスト教の影響は強く受けていますが、後にその中から取捨選択して、自分なりの価値観を築き上げました。でもその中に自己犠牲の尊さは残った。なぜだろう?と考えるのです。


 そして今回、この「グスコーブドリの伝記」を再読してみて、ああ分かったと思ったことがあります。
 私がこの作品で一番好きなセリフは以下のものです。大飢饉を止めるために、自らを犠牲にして火山を噴火させようとしに行くグスコーブドリに対し、もっと年上の大人たちが「君のような若者が」と言って止めるのですが、それに対するグスコーブドリの返事。
 「私のようなものはこれから沢山できます 私よりもっともっと何でもできる人が」「私よりもっと立派にもっと美しく 仕事をしたり笑ったりして行くのですから」(同書638ページ)

 ああ、これだ、と思いました。この善なるものへの信頼。
 グスコーブドリは幼い頃から沢山の苦労をしてきて、親も妹も失って、それでも実直に働き勉強もし、やっとその才能が認められて世に出てもなお誠実に正直に働き続け、世のため人のためになることをただ地道に静かにやってきて、最後に27歳の若さで死んでいこうとするのですが、そこで口に出るのがこの言葉。

 ・・・どうしてこんなに人を信頼できるのだろうと思います。彼は人に騙されるという経験も沢山してきて、人間の醜い部分も沢山見てきているはずなのに、どうしてなおこれだけ人は素晴らしいものだと信じることができるのだろうかと。そしてこれからも美しくありつづけるのだと、信じることができるのだろうかと。
 彼は決して馬鹿ではありません。頭はいいし、世の中のことも知っているのです。だからこれは「そうであって欲しい」という夢のような願望ではなく、彼なりの確信あっての台詞なのです。
 若くしてすでに色々なものを、充分すぎるほどに見てきた智者が、最後に辿り着いた結論なのです。それに人生を賭けてもいいと思うほどの。

 本当にそうであったら、どんなにいいでしょうか。願わずにはいられません。また同時に、信じずにはいられません。人というものを、そしてこの世の善なることを。
 つまり、この言葉が真実であるのではなく、この言葉があるからこそ、それが真実になりうるのです。この言葉を聞いた人が「そうであって欲しい」と願うことで、いつしかそれが現実になる。そういう類の言葉なのです。
 私は、これこそが純粋な「祈り」というものなのだろうなと思います。


 この作品が大好きなあまり、昔、カラーページのイラストを切り絵で再現してみたりもしました。
 せっかくなので、今回それも載せておきます。


「ブドリはうれしくって はね上がりたいくらいでした」
「この雲の下で 昔の赤髭の主人も」「となりの石油がこやしになるかと言った人も みんなよろこんで雨の音を聞いている」(620ページ)


〈ますむら版〉宮沢賢治・童話集―Kenji by cats

〈ますむら版〉宮沢賢治・童話集―Kenji by cats

  • 作者: ますむら ひろし
  • 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
  • 発売日: 1991/03
  • メディア: 単行本


追記。「グスコーブドリ」だけ読むなら、こちら。

グスコーブドリの伝記―猫の事務所・どんぐりと山猫

グスコーブドリの伝記―猫の事務所・どんぐりと山猫

  • 作者: 宮沢 賢治, ますむら ひろし
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 1995/07
  • メディア: 文庫


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「Death Note」7巻:ノワールを描くための課題 [漫画]

◆以下、内容の重要な部分に触れています(ネタバレしています)ので、ご注意ください。◆

 この作品は、少年ジャンプで連載しているにもかかわらず、主人公がそこに名前を書いた人を死に追いやれるという「デスノート」を使うことに、そしてそれによって大量殺人を犯していくことに、なんのためらいも良心の呵責も持っていないという点で、非常に異質でありまた面白い作品です。一言で言うと、これはノワール(ノアール)漫画なのです。
 ミステリの世界には、ノワール小説という分野があります。それは犯罪小説とも訳されますが、その名の通り犯罪者を主人公とし、犯罪者が裁かれることではなく、犯罪者がいかに自らの理由により犯罪をおかしていくか、またそれを楽しんでいくかという部分に主眼がおかれた作品群です。

 そういうわけであまり読後感はよくない作品も多いのですが、私自身はノワールは別に嫌いではありません。シェイマス・スミスの作品などかなり好きです(関連記事)。
 この作品の主人公、矢神月(ライトと読む)にも、だから嫌悪感を感じたりはしないんですが、ただちょっとここにきて「ああ、弱いなー」と思う部分も出てきました。それは一言で言うと、原作と作画の乖離でしょうか。
 原作は充分にノワールを書いていると思うのですね、しかし作画(絵)の魅力は少々方向性が違うように感じられてきました。それは月と彼を追う側の探偵役であるLのビジュアル面での違いにも表れています。純粋に絵として評価した場合、月よりLのほうが魅力的なんですよ。
 あの人間なのかどうかよく分からない奇妙な外見、やることなすこと特徴的で、携帯電話一つを使うにしても他の人なら決してしないような触り方をする。さらに甘いもの大好きで、画面ではいつも小ネタのようにさりげなく、いかにも美味しそうに甘いものを食べている。見ているだけで、面白い、いいキャラクターだなーと思ってきました。が、しかし・・・。

 一方、月(ライト)のほうは、どうにも作画という点で弱いような気がしてなりません。美形であり頭もいい、そして今時の青年としてきちんとキャラ構築はされているのですが、彼の悪や魔の部分、いわゆるノワールの部分ですね、それを絵として描く場合には、どうも下手をうっているような気がします。以前からその予感はありましたが、この巻と一つ前の巻において、ついにそれは明白になってしまったように思います。
 この前の巻で、月は一時記憶をなくし、ノワールではない正義感あふれる青年になっていました。・・・実はそっちのほうが、ずっと絵としては魅力的だった、そのことに気がついてしまったのです。
 一言で言うと、作画の小畑健さんは「目つきの悪い」人間を描くことが下手であるように感じられます。目つきの悪い月は、ただの目つきが悪い青年でしかない。ノワールならではの魅力、彼の善悪を超越した、自分の(歪んだ)理想のためには友と言ってくれた人間もあっさり殺せる、そういう酷薄な魅力を、上手く作画として表現しきれていないように感じられます。
 だからつい「惜しいなー」と思ってしまうのです、月がただのノワール青年に戻ってしまったことを。これはちょっとばっかし、ノワール作品としては致命的にもなりかねません。

 まあ、作画だけの問題ではない点もあります。月のキャラクターとしての最大の魅力は、その常人離れした頭のよさにあると思うのですが、この頭のよさを表す場合、それは往々にして文字だけに頼られるのです。だから月が悪事を企んでいる、その見せ場場面はしょっちゅう文字によって埋め尽くされます。まあ、漫画というのは文字表現も含めての表現であり、それを逆手に取っているような作家(江川達也さん等)も多くいますが・・・。
 Lの魅力がいたってビジュアル的なのに対して、月はとても文字的。これは対比なのか、それとも原作と作画の乖離なのか・・・私はつい考えてしまうのです。

 新キャラのニアとメロにしてもそれを感じます。彼らはそれぞれL(竜崎)の一部分を外見においても、あと多分内面においても受け継いでいますが、ニアがただ画面に存在するだけで目を惹かれるのに対して、メロのほうはどうにもビジュアル的にまだ安定していないというか、魅力をきちんと表現できていないように思います。そしてその理由は、ひとえにメロの方がニアに対してより悪に近い位置にいる、そのことにあるのではないかと思うのです。これもはっきり言ってしまえば、「目つきの悪さ」を描くのが下手、ということに尽きます。
 L(竜崎)の場合はあのナゾの目つきも、知性や可愛らしさを表していて面白かったんですが、メロの場合はうーん・・・ただの悪に見えてしまいます。歪みという感じじゃないし、何よりも知性が上手く出ていない。
 まあ、彼らはまだ登場したばかりなので(単行本では)、これからですけど。

 というわけで、この巻は「Death Note」制作陣がノワール漫画を描いていくにあたっての課題が、明白になった巻だと思うのです。でもこれからどのように展開していくのか、楽しみなのは言うまでもありません。
 ジャンプのようなメジャー雑誌の週刊連載という面白さは、この踏み外すか踏み外さないか、ギリギリの自転車操業的疾走感にあると思っておりますので(私も大概、性格が悪い)。

DEATH NOTE 7 (7)

DEATH NOTE 7 (7)

  • 作者: 大場 つぐみ
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2005/07/04
  • メディア: コミック

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